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「平穏死」を受け入れるレッスン 自分はしてほしくないのに なぜ親に延命治療をするのですか? 石飛幸三 音声配信中

第19回

【老衰死・平穏死の本】絶望から立ち直ったピッチャー

2018.03.29更新

読了時間

まもなく多死社会を迎える日本において、親や配偶者をどう看取るか。「平穏死」提唱者・石飛幸三医師の著作『「平穏死」を受け入れるレッスン』期間限定で全文連載いたします。
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本を「聞く」という楽しみ方。
この本の著者、石飛幸三医師本人による朗読をお楽しみください。

■絶望から立ち直ったピッチャー

 スポーツ選手にとって、故障は人生を左右する問題です。もう四十数年前のことになりますが、プロ野球のピッチャーが肩を壊して病院にやってきました。当時、巨人軍の選手だった加藤初さんです。

 五月、試合で投げて勝利したあと、大事な利き腕がだるくて上がらなくなったといいます。やってきたときは、本当に肩から腕がだらりと垂れ下がっているような状況で、ご本人は不安を通り越して、絶望的な表情でした。いまでもピッチャーが肩や肘を壊す大きな故障は、そのまま選手生命の終わりを意味します。加藤さんは、過外転症候群という肩の血管外傷でした。

 人間の遠い先祖は四本足で歩いていました。やがて立って二足歩行をするようになりました。これにより腕が胴体に対して平行の位置で使われるようになり、腕に行く動脈は小胸筋の付け根の後ろを回り込むような位置関係になりました。ピッチャーはその形の肩で剛速球を投げるという動作を繰り返すため、動脈が擦り切れてしまいやすいのです。

 それまでも手術の方法はありました。擦り切れた動脈部分を人工血管に置き換えるのです。しかし人工血管と生来の血管との結節部分がうまく馴染まないため、ピッチャーが再びプロの選手としてマウンドに立つことはありませんでした。

 私は、このような血行障害の患者さんが来たら、こういう治療法を提案しようという一つのプランを持っていました。それは動脈の通り道を変える方法です。小胸筋が無理なく前にまわるように動脈の位置を変えさせてもらう手術を考案したのです。

 そして、使うのは人工血管ではなく、本人の大腿部の内側に走っている大伏在静脈を転用することです。

 人間の血管というのは、じつにうまくできています。動脈はそれぞれ組織へ血液を配分する責任を背負っていますから差し替えは利きませんが、静脈はある程度余裕を持った還流回路です。場所によってはその静脈を他に転用しても並走する別の帰り道があるのです。しかも静脈は、それを動脈の位置につかせてやると、元からそこにあった動脈に“変身”して、ちゃんと動脈の務めを果たしてくれるのです。

 その上、前と同じ位置につけたら、擦り切れてしまう可能性がありますが、ルート変更をすることで、同じリスクも避けられます。

 いわば、人間の血管の部分的構造改革をさせてもらったのです。

 私は常日ごろ神を信じる者ではありませんが、さすがに「人間の創造主である神さま、ちょっと不遜なことをさせていただきますが、どうぞお許しください」とお断りせずにはいられませんでした。

 手術の翌朝、私はスポーツ紙の取材陣を前に「手術は一〇〇パーセント成功しました」と自信たっぷりの発表をしました。おかげでそれを見た先輩医師から「外科医に一〇〇パーセント成功なんてあり得ない。おまえは医療をなんだと思っているんだ、不届き者!」と激しいお叱りを受けたのですが、それは加藤さんに再起の意欲をかき立ててもらうためにしたことでした。

 スポーツ紙の記事を読んで気をとりなおした加藤さんは、すぐにリハビリを始め、予想より早く八月には戦線に復帰したのです。そして、そのシーズンの巨人のリーグ優勝に貢献しました。

 加藤さんの再起を見て、その後何人かのピッチャーが手術してくれ、とやってきました。同じ巨人の新浦壽夫(にうらとしお)さんなど一〇人の選手を手術し、再起された選手はいずれも強くなられ、立派な戦績を残されました。

■青天の霹靂

 そのころの私は、じつに血気盛んでした。おかしいと思うことは声を上げずにはいられない。思いついたらすぐ行動。病院内でもそうでした。

 いまでこそチーム医療というのは病院の常識になっていますが、そのころは各診療科の間に連携がなく、内科、外科、整形外科、婦人科、小児科、泌尿器科、皮膚科、形成外科、放射線科、病理科……それぞれがばらばらな方針でやっていました。病気の正確で迅速な解決のためにも、患者さんの便宜のためにも、各科の横断的な協力体制が不可欠です。

 ちょうど古い建物が取り壊されて新しい建物に移る機会がありました。私は医局の総合化を唱え、各診療科の医局を一ヵ所にまとめて総合医局を立ち上げ、その医局長になりました。

 病院の臨床業務は飛躍的に充実していきました。

 一九八〇年代、ちょうど日本の経済が右肩上がり一直線の時代でした。病院の評判も上がり、患者さんの数も増えました。経営も安定し、その結果、先進的な医療を次々進めることができました。

 院長が交代され、事務長も変わりました。そのあたりから、病院の経営は思わぬ方向に走り出していたのです。

 時はバブル真っ盛り、新しい事務長は景気の波に乗って財テクをして資産を増やそうと考えました。ところが、その方法がまずかったのです。

 一九九六年一〇月、病院の管理職員宛てに告発文書が送られてきました。そこには、事務長が数十社の仕手株を売買し、病院に多大な損失を与えていること、定款により高額な寄付があった際には、検査機器の購入にあてると規定されているにもかかわらず、検査機器はリース用品を使い、寄付金は別件に流用していることなどが書かれていました。

 事の重大性に鑑み、院内に調査委員会が設けられ、当時、副院長をしていた私は調査委員長を命じられました。

 私は調査報告書をまとめました。実際に関係した職員の証言もあり、告発文書に書かれていたことはほぼ事実であったことがわかりました。

 私は思いました。起きてしまったことは仕方がない。もう一度努力して再起を図ろう。われわれにはよい医療がある。よい医療をすれば患者は来る。経済的損失は取り戻せる。この機に膿を出しきって、内部の自浄作用を働かせて再起すればいいのだ、と。

 私の勤務していた東京都済生会中央病院の母体は、明治天皇の御下賜金で設立された済生会という恩賜財団です。全国に四〇以上の支部を擁す大組織で、中央病院はその核となる病院です。会社における役員会にあたるのが財団理事会です。重要なことはその場で決められます。中央病院の関係者で理事会に出席できたのは、院長と、渦中の事務長だけでした。

 理事会の結論は、皇室に由来する恩賜財団において、このようなことがあったことが表沙汰になってはならない、というものでした。要するに、組織ぐるみの隠蔽です。

 調査書類は報告の場ですべて没収され、調査報告をまとめた調査委員長は解雇すべし、ということになり、私は突然、解雇を言い渡されました。青天の霹靂でした。

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著者

石飛 幸三

特別養護老人ホーム・芦花ホーム常勤医。 1935年広島県生まれ。61年慶應義塾大学医学部卒業。同大学外科学教室に入局後、ドイツのフェルディナント・ザウアーブルッフ記念病院、東京都済生会中央病院にて血管外科医として勤務する一方、慶應義塾大学医学部兼任講師として血管外傷を講義。東京都済生会中央病院副院長を経て、2005年12月より現職。著書に『「平穏死」のすすめ 口から食べられなくなったらどうしますか?』(講談社)、『「平穏死」という選択』『こうして死ねたら悔いはない』(ともに幻冬舎ルネッサンス)、『家族と迎える「平穏死」 「看取り」で迷ったとき、大切にしたい6つのこと』(廣済堂出版)などがある。

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