第6回
長谷川時雨――おやっちゃん、長谷川時雨に変身する(後篇その1)
2022.03.25更新
『文豪の死に様』がパワーアップして帰ってきました。よりディープに、より生々しく。死に方を考えることは生き方を考えること。文豪たちの生き方と作品を、その「死」から遠近法的に見ていきます。
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時雨は18歳になったある日、突然見合いを言い渡された。ほぼ不意打ちだった。しかも、見合いは形ばかりで、拒否権はなかった。
相手は近所の水橋家次男・信蔵。乱暴な放蕩者として極めて評判の悪い人物だった。風采もあがらない。それでも、長谷川家は長女の結婚相手に選んだ。
なぜか。水橋家が、将を射んと欲すれば先ず馬を射よ、を地で行く作戦を練ってまで、時雨に執着したからだ。
まずは遊び好きな父・深造を接待攻勢で籠絡した。父の次は母で、なんのかの理由をつけては交際し“気さくな一家”を装って懐柔していった。その様子はほとんど太鼓持ちだったらしい。しかし、水橋家にはそこまでしても長谷川家の娘をもらわねばならぬ理由があった。
水橋家は金持ちだった。ただし、明治になって屑鉄商から成り上がった典型的な「成金」で、日本橋でいい顔をするには貫目が足りなかった。そこで、地域の名士である長谷川家と縁続きになろうと目論んだのだ。人を見る目は確かだった傑物の祖母が生きていれば、水橋家の企みも成功しなかっただろうが、残念ながら数年前彼岸に渡っていた。守りの盾は失われていたのだ。
前後の経緯は「渡りきらぬ橋」や「薄みずいろ」などの自伝的小説に書き残されているが、読むだに胸が痛む。
なにせ、結婚に賛成なのは時雨の両親だけだった、という酷さなのだ。
仲人でさえ結婚当日に「この娘さんをあすこへおやりになるのはお可愛そうだ。まるで肌合が違います。私達が早く知っていたらやらせるのではなかったのに。」とため息をついたという。仲人がこんなことを口に出すなんて、普通は考えられない。どれだけひどい縁組だったのか知れたものだ。
結局時雨にできたのは、婚礼の席での三三九度をやんわりと拒否することだけだった。
盃のとりかわしの時に、私は無意識に盃を上にあげました。女蝶男蝶の小さい子供達は、なんの思慮もなくつぐのをやめました。けれどその盃の酒を一口もふくまなかったからとて何の心ゆかしになりましょう。(「薄みずいろ」より)
当然ながら、この結婚は時雨を不幸にした。
その上、長谷川家にも暗雲をもたらした。
時雨は、上品ぶってるとして家中から爪弾きにされた。一度嫁にもらってしまえばこちらのもの。粗末に扱おうがなんだろうが知ったことではない。“嫁のヤス”は舅姑に変人扱いされ、夫には暴力をふるわれた。妻への暴力は、子へのそれと同じく躾に過ぎない。それが家父長制下における夫婦の在り方である。実家の親が今更慌てたところで、一度嫁いでしまったら、婚家に口は出さないのが当時の習慣だ。体面大事の長谷川家なら騒ぎもしないはずと踏んでいたのだろう。周囲に誰一人理解者どころか、打ち解けて話せる相手すらいない状況に、時雨の気鬱は日々増していった。
派手好きの一家がやれ芝居だ温泉だと出かける際、病弱を理由に一人留守番し、読書をするのだけが楽しみだった。この時期にはプラトン全集を読んでいたとの逸話もある。哲学に心の拠り所を求めようとしていたのだろうか。
結婚さえすれば身持ちも落ち着くという触れ込みだった信蔵は、大方の予想通りまったく行いを改めず、放蕩三昧は止まなかった。
そんな信蔵を水橋家は何度目かの勘当に処した。これ幸いと時雨は離縁を申し込んだが、受け入れられなかった。時雨は倅の嫁としてではなく家の娘としてもらったのだ、というのがその言い分だった。要するに、次男なんぞは縁を切って惜しくはないが、まだまだおいしい長谷川家との付き合いは何が何でも絶ちたくなかったのである。ここまでクズだといっそ清々しいが、時雨はそれどころではない。気の休まらない日々に健康すら損ねていった。
そうこうしているうちに、大事件が起こった。嫁いで3年目、時雨21歳になった年に、父が東京市議会で発生した疑獄事件、つまり政治家や役所を巻き込む大規模な贈収賄事件に連座し、公職を辞すことになってしまったのだ。
清廉潔白で名利には疎いはずの父が、なぜこんな恥辱を。
時雨には、どう考えても水橋家との交際が父をダメにしたとしか思えなかった。実際、深造が関わった水道管鉄管事件は鉄成金の水橋家絡み案件だった。連日連夜の接待攻勢に、さしもの深造も脇が甘くなっていたのだ。
父は時雨に詫びの手紙を送ったそうだが後の祭り。すべての公職から退き、隠居の身となった。父親っ子だった時雨は、今更ながら婚家の目論見に気づき、なぜもっと強く離縁を申し出なかったのかと後悔した。彼女は完全に被害者なのに、自分を責めたのだ。そして、ショックのあまり寝ついた。気の病はそうそう治らず、養生を理由にした里下がりを、婚家も認めざるを得なかった。それでも離縁は承服してもらえなかった。
その間、水橋家では未だ行動改まらない信蔵を釜石鉱山にいる知人のもとで働かせようと画策していた。実質島流しである。東京を離れれば少しはマシになるかも、と考えたらしい。タモリが「うんなわきゃあない」と切り捨てるレベルで甘いが、親なんぞそんなものである。
だが、知人も信蔵一人では預れないと、なかなか首を縦には振らなかったらしい。なにせ相手は名うてのバカ息子である。世話をする人間がいなければ何をしでかすかわかったものではないと思ったのだろう。
そこで、水橋家は時雨に同行するよう頼んできた。信蔵はくさっても戸籍上の夫である。時雨に拒否権はない。ここに及んで両親もやっと目が覚めたが、行かせないわけにはいかなかった。家父長制下の妻とは、事程左様に自由がなかった。
だが、人生とはおもしろいものだ。
結果的にこの釜石行きは、時雨にとって吉と出たのだ。
旅立つ当初は地獄行き汽車に乗せられた気分だっただろうが、鉱山町での逼塞の日々には思わぬ役得があった。不幸な妻・水橋ヤスを、女性作家の嚆矢・長谷川時雨に変えるだけの時間と自由を得ることができたのである。
史上初尽くしの女性劇作家・爆誕
東京と違い、万事が粗野で垢抜けない鉱山町での生活に、都会の遊蕩児が耐えられるはずもない。夫は時雨を山に残して、自分だけ始終どこかに出かけていた。
しかし、この山住みの丸三年は、わたくしに真の青春を教えてくれた。肝心の預けられた息子は居たたまれなくて、何かにつけて東京に帰って長く居るので、わたくしは独居の勉強が出来た。県道からグット下におりて、大きな岩石にかこまれた瀬川の岸に、岩を机とし床として朝から夕方まで水を眺めくらして、ぼんやりと思索していた。ある時は、水の流れに、書いても書いても書きつくされないような小説を心で書き流していた。「一元論」を読み、「即興詩人」を読み、馴れない積雪に両眼を病んで、獣医も外科医も、内科も歯科もかねる医者に、眼の手術をしてもらって、それでも東京へは出ず、頑固に囲炉裡のはたや炬燵のなかで、繃帯をした眼で、大きな字を書いて日を送っていた。(「渡りきらぬ橋」)
生まれて初めて、思う存分、読み、書くことができる。
何よりの幸せが、山中にあった。
それまでの鬱憤を一気に晴らすように、作品を書いた。
そして、臆すことなく成果を世に問うた。小説や戯曲の懸賞に応募したのだ。
時雨の凄さは、実はここにある。
彼女はとにかく「動く」のだ。
成功するかしないかなんて考えず、とにかく動く。
やってみなきゃわからないじゃないか、の精神の人なのだ。
普通の人間はだいたいここで「私なんかどうせダメだから」とか「才能がないってレッテル貼られたら怖いから」とかグタグタやっているうちに、人生を徒にしてしまう。思い切って飛び込むか飛び込まないかが人生の分水嶺であって、「オルラァ、行ったるわ~!」ができた人は、結果の吉凶を問わず褒め讃えられるべきだ。
だから、私は声を大にしてこう叫ぼう。
おやっちゃん、かっこいい。まじリスペクト。そこにシビれる! あこがれるゥ!
……いや、本気で尊敬しているんですよ?
無名の一主婦・おやっちゃん渾身の作品は、次々と評価された。女性だけが対象の賞のみならず、男女混合の懸賞であっても並み居る男どもを力技で押しのけたのである。
さて、ここから先の活躍っぷりは、年譜にして御紹介しよう(年齢は満年齢)。
■明治34年(1901) 22歳 本名・水橋康子名義で雑誌「女学世界」の小説懸賞に応募。「うづみ火」と題した処女作は特賞に選ばれ、賞金と誌面掲載のチャンスを得る。雑誌主筆から激勵鞭撻の書簡が送られ、文壇デビューへのサポートを申し出られるも華麗にスルー。自分の力だけでなんとかなると思っていたらしい。実際、投稿を繰り返す中で少しずつ注目を集めはじめ、複数の賞を受賞した。
■昭和37年(1904) 25歳 3年の約束を果たし帰京。婚家には戻らず、父とともに佃島で暮らす。築地明石町にあった女子語学校(現在の雙葉学園)初等科に入学して12歳やそこいらの子供たちと机を並べ、英語を学ぶ。通学は2年のみ。また、藤間流の日本舞踊も習っている。
■明治38年(1905) 26歳 読売新聞の脚本懸賞に「海潮音」で応募、一等当選を果たす。作品は新聞の五面を使って挿絵付きで全文掲載される。さらに乞われて掌編「晩餐」を寄稿。はじめて「しぐれ女」なる雅号を名乗る。
■明治40年(1907) 28歳 水橋信蔵との協議離婚が成立。晴れて自由の身となる。
■明治41年(1908) 29歳 日本海事協会主宰のチャリティ演劇台本公募企画に史劇「覇王丸」で応募。当選し、2月には「花王丸」と改題の上、歌舞伎座で上演される。
■明治42年(1909) 30歳 日本新聞にて初めて新聞小説を連載。名実ともに一流作家の仲間入りをする。
ひとまず、30歳の時点で区切ろう。
泣きの涙で過ごした10代末から20代前半の苦労が一気に報われ、自力で大きな花を咲かせた時雨は、時代の寵児になった。
特に「花王丸」は日本演劇史上に残る一大事だった。女性が書いた戯曲が歌舞伎で上演されたのは史上初だったのだ。当然この椿事は大いに宣伝に利用され、女性初を連発する宣伝文句が謳われたほか、興行中には舞台挨拶にも立った。さらに美貌を買われて、ブロマイドまで売り出される騒ぎだった。女優への転身まで勧められたが、これはきっぱり拒否。この辺りは賢女の賢女たる所以か。
ただし、決して色物扱いだったわけではない。それは一流ばかりを起用した役者の布陣を見ても明らかだ。
それにしても不思議なのは保守的な歌舞伎界がなぜ時雨を受け入れたか、という点だが、これには布石があった。そう、父・深造と歌舞伎界の関係である。時雨は歌舞伎とまったく縁がないわけではなかったのだ。この手の「事前の人間関係」は社会で結構ものをいう。
また、ちょうど、新劇に刺激を受けた若い役者を中心に「文士が書いたしっかりとした脚本」を求める気運が高まっていたのも、時雨の出世に味方した。特に主演した六世尾上菊五郎とは終生の友人になるなど、若い演劇人が屈託なく女性劇作家を受け入れたのは大きかった。
その上、当時、演劇界に絶大な影響力を誇っていた坪内逍遥が時雨の作品を絶賛した。おかげで権威に弱い層はイチコロだった。
ここにきて、前半生の不運に対し利子をつけて返済するような幸運が次々に舞い込んだのだ。もちろん、実力が招いた幸運だが。ついでに申し添えておくと、演劇界の“古い人”たちにはそれなりに嫌がらせを受けたようである。まあ、ありがちなパターンだ。それでも「花王丸」の興行は大成功を納め、新劇として「海潮音」の上演も決定、さらに歌舞伎「さくら吹雪」で評価を絶対的なものにした。
時雨の時代が到来したのだ。
書き手としては戯曲だけでなく劇評や散文も手掛け、雑誌や新聞の寄稿依頼も次々舞い込んだ。
また、「時の人」として雑誌などでも頻繁に取り上げられた。たとえば、明治44年発行の週刊サンデー(マンガ誌ではなく普通の週刊誌)、時雨32歳の優雅な生活がルポされている。12畳の大きな座敷には当時超高級品だったガラス障子がはめてあり、朱壇の机には青銅製の置物なんかが据えてあったそうだ。羽振りの良さが伝わってくるではないか。
当時、父は隠居の身だったのは前述した通りだが、母は家庭の主婦からなんと実業家に転身していた。夫が稼がなくなったから、伝手を使って箱根の塔ノ沢にある新玉の湯という旅館の経営に乗り出し、それが当たったのだ。当時の塔ノ沢は、箱根温泉の中でも各界の名士がお忍びで骨休めに来るちょっと特殊な地域だった。今でも古い高級旅館が数軒残っているが、最盛期には川岸にずらり、贅を尽くした建物が並んでいたという。その多くは、政財界の大物が妾に経営させていたのだとか。だから、地味な地域の割には、お客さんは豪華だった。なるほど、塔ノ沢のあの隠れ家的雰囲気はその名残なのか。
新玉の湯はかつて「玉の湯」として塔ノ沢上流にあったが、山崩れで壊れたので駅前に移転して、経営者も変わった。それを引き受けたのが多喜だったらしい。
多喜は初めての商売が面白くてしかたなかった。こうなるともう時雨がどれだけ社会の表に出ようが文句はなかった。それどころか、娘の名声は自分の商売にもおおきに寄与する。文句のあろうはずもない。
そして、経営者としての成功は多喜の内面も変えていた。生まれて初めて能力を正当に評価されたことで、心の氷が溶けたのだ。なんと読書をするようになったのである。
「こんなおもしろくて役に立つことを、私はなぜ娘たちに禁じたのか。私がバカだった」
この言葉を聞いて、少女時代の時雨も少しは成仏したんじゃないかな、と思う。過ちを謝ってくれる親というのは、結構得難いものだ。
とにかく、母はようやく娘を全面的に肯定するようになった。もう結婚しろとうるさくいうこともなかった。人生を人の金任せにする女の人生の脆さを、己が実感したからだろう。
時雨をめぐる男たち
文筆家として完全に独り立ちした時雨だったが、離婚以降まったく男っ気がなかったわけではない。実は離婚前からいい仲になっている男性がいた。
小説家で劇作家の中谷徳太郎である。今となっては一般的な知名度は皆無だが、明治から大正にかけてわずかばかり活動した人物だ。森銑三のエッセイに特に注釈なく名前が登場しているので、明治時代の演劇界ではそれなりに名前は通っていたと考えてよいだろう。そして、時雨の「惚れた男にゃ尽くして尽くして尽くすのよ」攻撃を最初に受けてしまった人物でもある。
七つ年下の中谷と時雨が出会ったのは紙の上である。雑誌投稿時代に誌面上でお互いの名前を知り、中谷が時雨に「はげましのお手紙」を送ったのをきっかけに交際が始まったのだ。なにせ、七つ年下だから当初の中谷はまだ十代だったはず。だから、二人は時雨が東京に戻るまで、文通のみで繋がっていた。プラトニックラブである。
帰京後、二人がいつ初対面を果たしたかは不明だが、佃島の家にはちょいちょい遊びに来ていたという。不幸な初婚によって、恋を知らないままだった時雨は、彼との交際で初めていわゆる「女の幸せ」を知った。
そんな中、文名を上げたのは時雨が先だった。というか、残念ながら才能は比べるべくもなかったのだ。けれども、時雨はなんとしてでも中谷を押し出そうとした。
明治45年(1912)、劇評家としても活躍していた時雨は自前の資金をはたいて雑誌「シバヰ」を創刊したが、中谷を共同経営者にしている。さらに大正3年(1914)には劇場経営者・田村成義の後援を得て、六世菊五郎と共に創作劇劇団「狂言座」を立ち上げ時には、記念すべき第一回公演の演目に中谷作の「夜明前」を選んでいる。私情はさみまくりである。
さあ、お立ち会い。
男女間の権力勾配が女側に傾いている状態で、女が尽くしまくるとどうなるか。
十中八九、男は離れていく。
もうこれは古今東西を問わぬ真理だ。Truthだ。
二人の恋も、中谷の離反で終わった。
かわいい年下の男の子もいい年になるつれ、「女の力」で世に出ている現実に耐えられなくなったのだろう。ま、ありがちな話ではある。
だが、時雨の方も実は中谷から心が離れつつあった。別れる少し前から、15歳年下の緒田原雅夫なる男性と文通し、心惹かれていたらしい。
中谷は別離後「孔雀夫人」なる小説を書いた。主人公の孔雀夫人は時雨がモデルだというが、作中孔雀夫人は自殺する。心理学を持ち出すまでもないわかりやすさだ。
実際夫人は立派だった。気高い風采と美しい容貌――、(中略)今でもあの顔の印象が、まざまざと私の記憶の底に残っている。それはおそらく一生消えない記憶として残るに違いない。(「孔雀夫人」より)
ところが、皮肉なことに、記憶を持ち続けることになるのは時雨の方だった。中谷は別離から5年後の大正9年(1920)に34歳の若さで没してしまうのだ。
一方その頃、時雨はというと、緒田原氏との関係もすっかり終わり、別の男と同棲を始めていた。その男こそ終生のパートナーとなった三上於菟吉だった。ちなみに於菟吉は12歳年下。
時雨の年下好きはちょっと異常なのだが、結局のところ、彼女の愛情は「世話を焼ける相手」にしか向かなかったのではないか、という気がする。間違いなく愛情過多のタイプだ。しかも、愛情の質は「母性愛」である。
自分を犠牲にしてでも、我慢に我慢を重ねても、男を世に出す、男を立てる。
根っから浪花節の人なのだ。
いや、尽くす相手は男ばかりではない。商売に行き詰まった母も、父を亡くした弟妹たちも、母なし子になった甥の仁も、さらには見も知らぬ“虐げられた女性”たちまでもが「愛」の対象になった。
聖母マリアか観音か、という話である。
そして、その愛をまっすぐに受け止められた人、あるいはうまく利用できた人たちは見事に出世していった。
だが、時雨自身は己の愛情深さ故に、貧乏くじを引き続けることになってしまう。
花の命は短くて、とは後に時雨が主宰する「女人芸術」から頭角を表した林芙美子の言葉だが、演劇人としての時雨の命もまた、あまり長くは続かなかった。
最大の妨げになったのは、またもや家族だったのだ。
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