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もっと文豪の死に様

第7回

時雨変化、からの七転び八起き(後篇その2)

2022.04.08更新

読了時間

『文豪の死に様』がパワーアップして帰ってきました。よりディープに、より生々しく。死に方を考えることは生き方を考えること。文豪たちの生き方と作品を、その「死」から遠近法的に見ていきます。
「目次」はこちら

 時は大正4年(1915)。時雨、36歳。
 劇作家デビューから10年経ち、演劇界のオピニオン・リーダー的地位を築いていた。
 ところが、あろうことか、この年を境に演劇界から身を引いてしまうのだ。デビューから10年の36歳なんて、まさにこれから脂が乗る一方の時期だというのに、自らキャリアを断ってしまったのだ。一体なぜそんなことをしたのだろう。
 時雨の研究者は、この路線変更について、複数の理由をあげている。
 ひとつは中谷徳太郎との別れだ。顛末は前回書いたので省くが、別離によって時雨が初めて興した雑誌「シバヰ」は廃刊となった。
 次に六世尾上菊五郎たちと立ち上げた劇団「狂言座」の実質的失敗である。
 狂言座について語ろうとすると、明治時代に発生した演劇改良運動について触れなければならないが、詳しくやりだすとそれだけでまた一回分は必要になるので、さらっと触れるだけに留めたい。
 文明開化の御時世、従来の歌舞伎は、荒唐無稽なストーリーや演劇スタイル、茶屋を間に入れる興行慣習までが“時代遅れ”とみなされるようになった。若手を中心に近代化を熱望する声が高まったのだ。
 なにぶん急進的だったせいで功罪はある(そうだ)が、それでも歌舞伎が今も“娯楽として通用するほぼ唯一の伝統演劇”として続いているのは、演劇改良運動の“功”によるところが大きい。歌舞伎が“古典芸能”として確固たる地位を築けたのは、この運動あってのことなのだ。
 狂言座はそうした流れの上に生まれたものだった。しかし、残念ながら徒花に終わる。あまりに先進的で、理解できない人の方が多かったのだ、という。それゆえ劇評はさんざんだったし、興行的にも芳しくなかった。
 しかし、時雨なら、そのつもりさえあれば、持ち前の負けん気で世間が納得するまで続けることはできただろう。
 けれども、しなかった。
 家庭がごたつき始めたからだ。
 最初の一撃は大正3年(1914)、弟・虎太郎の妻が産褥で亡くなったことだった。遺された乳飲み子を男手一つで育てるのは無理と、時雨は甥の仁を引き取る決意をする。母や妹など、女手の多い一家だったからだ。
 こうしていきなり子育てが始まったわけだが、元々母性本能過剰気味の時雨は育児に入れ込んでしまった。もう甥っ子がかわいくてかわいくてしょうがない。不憫な子ゆえ、寂しい思いはさせたくない。実の母も真っ青の熱心な育児だったそうだ。
 次の騒動は大正4年(1915)、母・多喜が起こした。総支配人として経営に携わっていた高級料亭・紅葉館でゴタゴタを発生させてしまい、辞任せざるをえなくなったのだ。
 紅葉館は、料亭といってもただの料亭ではない。株式会社として運営され、オーナーは豪商。会員制で、メンバーは政治家や政商、高級軍人など、いわゆる「名士」に限られていた。そこでは日々、会合が持たれ、時には外交の舞台にもなった。ある意味、日本の歴史を裏で作っていたような場所だったのだ。今どきのイメージだと“赤坂の料亭”が近いだろうか。
 そんな店の女将に多喜が抜擢されたのは、箱根の旅館を繁盛させた腕を見込まれてのことだった。オーナー一家が遠縁だったらしい。
 初めのうちは、多喜も期待に応える働きをした。けれども、“無学な元主婦”には自ずと限界があった。古い商売しか知らず、株式会社の仕組みが理解できなかったのだ。結局は雇ってくれたオーナーが亡くなると、経営サイドと揉めに揉め、解任されてしまう。「母が憤死するのではないかと本気で心配した」と書き残しているぐらいだから、よほどのことだったのだろう。
 こうして母は無職になった。けれども、弟妹にはまだ成人していない者もいる。隠居させるわけにはいかなかった。
 そこで翌年、横浜にほど近い鶴見の地に、割烹旅館花香苑・新玉をオープンさせ、多喜に切り盛りさせることにした。出資者はもちろん時雨だ。時雨はとうとうビジネスオーナーにもなったわけだ。
 しかし、そこは開店したての店のこと。宣伝はもちろん、内装やしつらえの手配、さらには自ら接客、調理もし、時には洗い場にさえ立った。
 いくら働き者とはいえ、文筆活動と料亭運営の二足のわらじは相当きつい。その上、初めての育児もある。
 劇作家として活動する時間が失われたのは、当然だ。
 そこに止めを刺すように現れたのが、三上於菟吉だった。
 時雨は、何かと外出が多くなる劇作家のキャリアはリタイアしたが、文筆活動を諦めたわけではなかった。奈々子(ななし)の名で小説を出しはじめていた。また、時雨名義では、畢生の事業となった「近代美人伝」を始めとした評伝やエッセイをせっせと書いた。料亭の運転資金を稼ぐためにも、何より自分の文学を完成させるためにも、筆を手放すわけにはいかなかった。
 けれども、於菟吉との恋は、時雨に文学への志や家族への思いを忘れさせるほど十分に甘かった。37歳にして再びの恋を、そして38歳にして初めて「わたしの大事なだんな様」を手に入れた時雨は、その生活にどっぷりと肩まで浸かってしまう。
 大正6年(1917)、家族が住む横浜生麦の家を離れ、於菟吉と同棲を始めた。
 この人を、立派な文士に育てて、世に出す。
 それが目標となった。生活費は時雨持ち。ようするに、於菟吉は若きツバメにおさまったわけだ。
 でも、楽しかった。初めて相思相愛の夫婦生活を知った。貧乏でも、あなたがいれば幸せ。世話女房は楽しかった。それに、於菟吉の元にやってくる文学青年たちを相手にしていると、学生気分をも味わえた。彼らは演劇界の華やかな海千山千と違い、素朴で純なところがあった。
 この手の“世間並み”は、それを与えられる環境になかった者には、時として大変なご馳走になる。ずっとつきまとっていた大黒柱としてのプレッシャーからも解放され、ままごとのような生活に夢中になってしまったのも無理はない。
 しかし、それはすなわち、文筆家としてのキャリアの停滞を意味した。
 ここから数年、多才なアーティスト・長谷川時雨は休眠期に入り、若い男との恋愛に一喜一憂するおやっちゃんがメイン・ペルソナになってしまうのである。

一度目の機会損失と大きな後悔

 ありがたいことに、おやっちゃんの献身と犠牲は無駄にはならなかった。
 ほんの数年で於菟吉が無事“食っていける作家”になったのだ。三度目の正直で、今度こそ才能ある男性に巡り会えたのである。勿怪の幸いだった。女が貢いで貢いで、それでも花咲かずに終わる男なんてそれこそ山ほどいる。
 けれど、於菟吉の成功に百パーセントの形で報われたわけではない。いや、むしろ仇で返された。金を持った於菟吉が、浮気を繰り返すようになったのだ。
 裏切りに心引き裂かれ、プライドを傷つけられ、時雨は地獄の日々を送ることになる。
 興味深いことに、時雨はこの時期にだけ日記をつけている。あれだけ書くことが好きなわりに日記に関心を持たなかった人が、急にやりはじめたのだ。
 公表前提の作品では「知性と気風の長谷川時雨」を崩すことは決してなかったが、日記には生々しい嫉妬と嫌悪を書き綴っている。
 中でも特筆すべきが、大正11年(1922)7月7日の日記だ。
 この日、時雨は朝から激しい不快の念に因われていた。
 於菟吉が二人の女に宛てて書いた二通のラブレターの書き損じと、反古紙にべっとりついていた自慰の痕跡を見つけてしまったからだ。
 付き合い始めて3年ほど、二人は……というより、於菟吉はすでに倦怠期に入っていた。また時雨も時雨で、於菟吉を性的に受け入れられなくなっていた。セックスレスになること自体が、つまりは時雨も於菟吉を“恋人”とは見られなくなっていた証拠だろうが、それでもパートナーとしては大事にしていた。一方の於菟吉は、レスを理由にパートナーシップから離脱する気配を見せていたのだ。
 そもそも、時雨に近づいて恋を仕掛けた時点でさえ、終生の伴侶に望んだとは思えない部分がある。年上女を利用するためだけに近づくほど悪人でもないが、利用できるのをせずにすますほど潔癖でもない。そんな感じだろうか。於菟吉の振る舞いをみていくと、私なんかは豊臣秀吉を思い出す。糟糠の妻である北政所をないがしろにはしないが、貞節を誓う気なんてさらさらないあの感じ。要するに女心に甘えきっているのだ。

 わたしは、一日一日と自分の存在が呪わしくなる。三上の過去 現在の 女を見る眼を見ると、わたしの誇はあとかたもなくなる。灰だ、一切が灰だ、灰色の生活だ。(日記より)

 劇作家としてのキャリアを捨ててまで尽くした恋の成れの果てが、灰色の生活だったのだ。そのやるせなさ、想像するだけで辛い。

 わたしも彼の狂しい、あばれ馬が一時狂ったような熱でしかけられたのを 冷静な なくてならぬ恋かと思ったのが ばからしい。何もかもが 呪わしくなる。(日記より)

 捨てたのはキャリアだけではなかった。

 わたしは こうなるまでに 仁にすこしでも さびしい思いをさせた事を思い 父上が 病床から 私が東京に来る時の 姿を追った眼差を思い出すと 自分が引裂いてしまいたいようになる。放埒な無せっせいな 男の 一時の熱情のために 私は沢山の罪をつくった。

 わたしは大声に泣きたい。(日記より)

 文学への望みも、大事な家族も、恋のために犠牲にしたというのに、今になってこの仕打ち。まるっきり新劇のヒロインである。
 大正10年(1921)に日記を書き始めたのは、思うように創作活動が進まない苛立ちゆえだったようだが、書きぶりは完全にプライベートなのか、それとものちの公開を意識していたのか、微妙なところがある。時雨は自分の心情だけを切々と書き綴るようなことはできないタイプの物書きだったらしい。他の日の文章は妙に小説的なのだ。
 ところが、この7月7日分だけは、小説的な部分もありつつも、生の感情が溢れ出している。おそらく、ストレスがピークを迎えていたのだろう。
 於菟吉への気持ちは冷めていった。だが、関係を断ち切るほどの思い切りもなかった。
 なぜか。
 メインは経済的な事情だったのではないだろうかと推測される。
 時雨はくだんの日記を綴った翌年、大正12年(1923)になって再び文芸の道に戻ろうとする。ようやく家庭幻想から脱却したのだろう。親友で劇作家の岡田八千代(注1)を誘い、第一期「女人芸術」誌の刊行を始めたのだ。
 だが、年が悪かった。そう、関東大震災である。刊行元が倒産し、雑誌も中断を余儀なくされた。また自身の体調不良も重なった。時雨は心の状態が即、身体に出る人だ。相当思い悩んだのだろう。
 そんな時雨とは裏腹に、於菟吉はスター作家への階段を一気に駆け上った。経済的にコード“安定”からコード“裕福”のレベルに移行した。時雨はマネージャー的な存在になりつつあった。金銭的な恩恵も受けていた。
 これでは、離れようにも離れられない。結局、於菟吉を好きに泳がせつつ実利を取る「もののわかった妻」の位置に甘んずるしかなかった。
 それに――やはり、人の感情、特に男女の仲というのは一通りではない。どれだけ憎んでも恨んでも、最後の最後に残る情を絶ち切れないこともある。まるで演歌の世界だが、実際にそういうものだから仕方ない。
 けれども、三十代後半から四十代という、物書きとして大事な時期にほぼキャリアがストップしたのは大きな痛手になったし、その自覚はあった。晩年になって、こう振り返っている。

 わたくしは、家庭婦として、あっちこっちに入用になって、引きちぎれるように用をおわされた。それを振りちぎってたらば、今日、もすこしましな作を残しているであろうが、父のことに対して、心に植えた自分自身との誓は頭を持上げてまず、人のためになにかする―― (「渡り切らぬ橋」より)

 人のためになにかする――。
 時雨がこの心意気のまま、自分らしさを取り戻すには、結局49歳まで待たねばならなかった。享年61の文士にとって、中年期における10年の空白がどれほどの損失だったかは言うまでもない。これが、文豪になりそこねた大きな理由の一つだろう。
 けれども、やっぱりただでは起きなかった。
 ここからの12年、時雨は彼女にしかできないことに全力を注ぎ始める。
 女性全体への奉仕だ。
 私は今ちょうどこの頃の時雨とほぼ同じ年齢なのだが、今から干支一回り分の歳月で彼女と同じレベルの仕事ができるかと問われたら、無理です、と即答するしかない。
 やっぱり、すごい人なのだ。
 長谷川時雨という人は。

後進の育成、そして愛国主義者へ

 昭和3年(1928)、時雨49歳。
 大ベストセラー作家として大変なお金持ちになっていた於菟吉が、突然こんなことを言い出した。
「おやっちゃん、ダイヤの指輪を買ってあげるよ」
 スイートテンダイヤモンドかよ、って話だ(そういえば最近見かけなくなりましたね、あのCM)。だいたい、ダイヤの指輪っていう発想がチャラい。それに、時雨は指輪を付けない主義の人だった。それにもかかわらず指輪を申し出たっていうことは、つまり付き合い始めて10年も経っているのに、時雨の趣味嗜好を理解していなかったことになる。よく考えもせず、「そこらの女が喜びそうなこと」で感謝の念になると考えたのだ。
 こういう男、いるよね。
 もちろん時雨は、ダイヤは貰わなかった。
 代わりに、「そのお金で、新雑誌を出させてください」と頼んだ。
 第二期「女人芸術」の刊行を目論んだのである。
 これは、時雨劇場シーズン2の開幕でもあった。
 黎明期から物書き業界に身を置いていた時雨は、女性が才能を発揮する場が限られているのを実感してきた。
 それでなくとも発表の場が少ないのに、同じレベルの作品なら問答無用で男性の作が優先される。最初から女性を排除するような連中もいる。女性文士を揶揄中傷の対象としか見ていない✕✕(本作の品位を保つために伏せ字)に至っては、浜の真砂の数より多かった。
 この件については、別の回で詳しくふれるつもりなので今はスルーするが、とにかく時雨が「女性が堂々と、真の実力を発揮できる場」を作ろうと考えたのは、彼女の経験および性格を勘案すると自然な流れだったといえる。かつての自分が味わったような「女ゆえの悲哀、悔しさ」をもう誰にも味わわせたくなかったのだ。
 こんな風に考えることができるなんて、やっぱり時雨は人間が大きい。誰もができることではない。世の中には、自分が苦労したら、他人も苦労しなきゃ気がすまない人間だって少なくないのだ。ブルーハーツの名曲「TRAIN-TRAIN」の有名な一節、「弱いものたちが夕暮れさらに弱いものを叩く」は、残念ながら真実である。
 他人を自分と同じ目に合わすことで心を埋め合わせようとする人間。
 他人が自分と同じ目に合わないようにすることで自己回復する人間。
 時雨は後者だった。江戸っ子的義侠心でもって、常に弱いものの味方であろうとした。
 創刊された雑誌「女人芸術」は、思想の左右や経歴の有無を問わず、広く門戸を開いた。編集スタッフも書き手も、みんな女性。才能とやる気さえあれば、誰でも寄稿できた。
 ただし、基本は原稿料なしだ。つまり「載せてもらえれば御の字」という建前だった。今なら確実に「やりがい詐欺」として叩かれる。
 けれども、食うや食わずの人間――林芙美子(注2)のような書き手――にはそれなりの原稿料を支払っていた。とはいえ、売上を還元していたわけではない。金の出どころは時雨のポケットマネー(≒於菟吉の稼ぎ)だった。
「女人芸術」は注目され、一定数の読者を確保していた。だが、商業的に安定ベースにあるとは、お世辞でもいえなかった。その辺りは「文藝春秋」などとはまったく事情が違う。主なターゲットとする「女性」に、高踏的な内容を求める層はまだまだ少なかった。自由になるお金を持つ層も少なかった。雑誌一冊買うのですら、父や夫の許可が必要、なんていう家もざらだった。これが、家父長制下の女性の地位である。
 ただし、時雨も最初から商業的成功を諦めていたわけではない。きちんと独立採算できるようにとは考えてはいた。その証拠に、誌面づくりからPRまで様々な工夫を凝らしている。
 誌面に関しては、範とすべき文芸誌の雄「文藝春秋」の企画を丸パク……もとい、お手本にしたり、有名人の作品もそつなく掲載したり、モダニズムを感じさせるおしゃれなデザインにしたりと、“手にとってもらえる雑誌”を目指して工夫した跡が随所に見える。
 また、PR活動はとにかく派手だった、という。興行を始める時はドカッと目立て、が信条だったらしい。芸能界での経験がそうさせたのだろう。
 なんにせよ、やればやるほど赤字が膨らんだ。当然、懐具合は芳しくない。時雨も自著を出したり、イベントをやったりして、自助努力は重ねたが、最終的には於菟吉に頼るしかないのが現実だった。
 だが、やがて於菟吉は出資に難を示すようになる。やればやるほど経済的な負担が増えることへの不満はもちろんあっただろう。だが、もう一つの理由は、内容の「左傾化」だった。
「女人芸術」のスタッフは、「女のための発言の場を!」と謳う理念に賛同して集まってきた若い女性たちだ。
 日本におけるフェミニズム雑誌といえば平塚らいてうの「青鞜」が嚆矢としてもっぱら有名だが、「女人芸術」創刊時には、仲間割れによってすでに雲散霧消していた。
 時雨は、「青鞜」創刊時の賛助員に名を連ねている。大きな役割を果たしたわけではないが、心意気は買っていたのだ。当然、志を継ごうとしたし、「青鞜」から流れてきた書き手も少なからずいた。
 当時、婦人運動の担い手の多くは共産主義者や無政府主義者だった。進歩思想として、重なる部分が多かったからだ。だが、共産主義者と無政府主義者は仲が悪い。右も左も、主張が強い人たちはすぐ分裂してしまう。結局、時雨のとりなしも功を奏さないまま内輪もめが収まらず、無政府主義者のグループがスタッフ陣から出ていってしまった。
 その結果、誌面はソビエト賛歌や労働者団結を訴えるような記事がドドンと増え、一時は「女人大衆」とサブタイトルを打つほど「左傾化」したのである。
 だが、時雨は彼女たちを止めはしなかった。自身が積極的に左翼的言論に乗るわけでもなかったが、好きにやらせたのだ。オーナーにもかかわらず、誌面の埋草として、後に「旧聞日本橋」としてまとめられることになるエッセイを淡々と載せていただけだ。
 労働者の連帯を叫ぶ勇ましい、だかどうにも空回り気味の評論が並ぶ中、旧き佳き江戸の香り漂う随筆が置かれているのは、読者にとって一服の清涼剤だっただろうか。
 だが、昭和初期、国が加速をつけて軍国化していていく中で、左傾化した「女人芸術」はたびたびの発禁処分を受けることになる。発禁処分とはすなわち、出来上がった商品を売ってはならないということだから、経済的打撃が大きい。おまけに「アカの雑誌」として避けられ始めた。返本は増える一方だった。
 こんな事態に直面したら、処分の原因となった書き手や編集者を雑誌から追放してもおかしくない。
 でも、時雨はしなかった。それどころか、発表の場所をどんどん失っていく左翼系作家に対し、影に日向に援助の手を差し伸べていたのである。
 これが、彼女が決して頑迷な軍国主義者ではなかった何よりの証拠だ。
「女人芸術」への寄稿者の一人で、“左翼作家”の佐多稲子(注3)は、後にこう語っている。

 長谷川さんは実に度量の広い、よく人の面倒を見る人で(中略)『女人芸術』の左傾化を許したのも、その度量の広さからだったろう。頼ってくるものを拒まない人であったから。

 かつて祖母がそうだったように、人を差別することなく、そして二心なく受け入れる。若い人たちのやりたいことを妨げようとはしなかった。
 アナーキストの望月百合子(注4)もベタ褒めする

 いつもおだやかな顔している人で、いろんなものを胸にのみこむ人でね。で、結局女の人のためにしようと思った人ね。「女人芸術」の発行もそうでしょ。才能を持った意欲ある女性なら誰でも育てようとしたんですよ。どれがだめで、どれがいいじゃないの。何かやりたい、それができる人ならぜんぶ育てる、そういう人なんですよ。

 ま、いつも「おだやかな顔」というのはあくまで表向きで、編集スタッフや家族にはかなりわがままで短気で喧嘩っぱやかったそうだが。それでも、“国士”を自認し、ヒダリやアカに対して偏見ばりばりだった於菟吉とは人の出来が違う。だいたい、いつの時代も国士様にはロクなのがいない(ただし、於菟吉の小説はとてもおもしろいのでおすすめします)。
 しかし、残念ながら、どれだけ度量が広くてもそれだけではお足は入ってこない。度重なる発禁は大きな痛手となった。軍国主義の道をひた走る日本において、「女人芸術」をそのままの方針で続けるのは無理だったのだ。
 そこに昭和不況が重なった。
 時雨の健康状態も影響した。
 結局、昭和7年(1932)に5巻6号48冊まで数えたところで、廃刊を余儀なくされる。
 仕方なかった。
 でも、大きな打撃だった。
 これで何度目の挫折だろう。
 けれども、今度も立ち上がった。
 翌年、「女人芸術」の書き手を再結集し、リーフレット「輝ク」を出したのだ。すべての女性が対象となる「輝ク会」の機関誌という位置づけだった。ペラ一枚を折っただけの紙っ切れなので、ページはたった4ページ。だが、質は高かった。
 それに、リーフレットなら安く読者に提供できる。つまり、「赤貧に喘ぎながらも学びを求めている読者」に、文学や思想の最先端トレンドを届けられるのだ。
 このメリットは大きかった。
 時雨は、「女人芸術」を買うために無理を重ねたり、一冊を買うのに何人もがお金を出し合わなければならない読者の存在に、常に心を痛めていた。同情心の強さ、弱きものへの共感は、ずっと失われていなかったのだ。
 けれど、この「長所」によって、昭和12年(1937)に始まった日中戦争では熱烈な軍支持者へと変貌してしまう。いや、変貌ではない。彼女にとっては、戦地に赴く兵士への慰問活動は、若き女性たちへの支援と同じ線上にあった。
 輝ク会はやがて輝ク部隊となり、銃後運動の中心となっていく。
 文筆においても、国策を反映した「欲しがりません勝つまでは」精神に満ちた作品を出していく。
 昭和15年(1940)、つまり死の前年に雑誌「少女の友」10月号に寄稿した「時代の娘」と題する短篇では、時勢にうとく戦時下でも変わらぬ生活をしようとする我が母を批判的に見る少女の物語を書いている。また、中国への慰問旅行から帰った後は、あちらこちらで講演し、またエッセイを書いて挙国一致の重要性を主張した。
 それもこれも義侠心ゆえだった。
 けれども、敵への憎しみを煽るようなことは一度も書いていない。
 また、遺された者の悲しみを小説に仕立てることも忘れなかった。
 戦争に全面賛成なわけではない。
 ただ、始まってしまった以上、支援しないわけにはいかない。だって、兵隊さんはお国のために戦っているんだから。
 それが時雨の価値観だった。
 美しいが、危険だ。危険だが、誰でもこうなる可能性はある。私にだって。
 時雨の死に様は、第一回で書いた通りだ。
 その際、林芙美子は「翠燈詩」と題した追悼の詩を寄せている。

 最後の昏れがたには、
 もう庭も部屋もなく森閑として、
 たゝ゛燈火がひとつ……。

 長谷川さん、そうではありませんか。

 いさぎよく清浄空白に還えられた佛様、
 おつかれでしょう……。
 あんなに伸びをして、
 いまは何処へ飛んでゆかれたのでしょう。
 勇ましくたいこを鳴らし笛を吹き、
 長谷川さんは何処へゆかれたのでしょうか。
 私は生きて巷の中でかぼちゃを食べています。

 この詩が、周囲の人たちを怒らせた。
 なにがかぼちゃだ、ふざけんじゃねえ、となったのである。
 実は、芙美子にとって、時雨は恩人だった。「女人芸術」に「放浪記」を発表できたから、芙美子は人気作家への足掛かりを得たのだ。売れない時期は、経済的にも助けてもらった。
 それなのに、まるで揶揄するようなこの内容。時雨の取り巻きが憤慨したのも当然である。
 そもそも、芙美子は時雨の生前から忘恩の言動を繰り返していた。時雨は気にもとめない様子だったというが、もしかしたら、その「相手にされていない感」が芙美子のコンプレックスをいたく刺激したのかもしれない。あるいは、時雨がどうやら無意識に持っていたらしい「田舎者」への軽侮を、敏感に察知していたのかもしれない。都会生まれはナチュラルに田舎者をバカにするが、芙美子はそんな空気には実に鋭い。軽んじられ続けてきた人間の過敏さである。
 だが、悼む気持ちがまったくないわけではなかった。時雨の妹で画家の長谷川春子(注5)は、後年のエッセイにおいて、芙美子が通夜の席上「明治が死んだ」と言ったと記している。それは同席する人々の気持ちを的確に代弁したものだったらしい。芙美子にもそれなりの感慨はあったのだ。いずれにせよ、まんべんなく人を怒らせる女である。ほんと、おもしろい。
 それに、正直言って、私はこの詩からはさほど悪意を感じない。
 だって、時雨は本当に「勇ましくたいこを鳴らし笛を吹き」「あんなに伸びをして」活動していたのだから。
 もし、この時期、文士として本当にやるべきこと……かつて於菟吉との葛藤を綴った日記のように、事態の推移を文章化し、心の襞を書き留めることに注力していたら、もう少し文名は残ったかもしれないと思うのだ。たとえば、どこまでも己のためにだけに生きた同い年の永井荷風(注6)のように。
 でも、時雨には自分のことだけに集中するなんてできなかったのだろう。
 どこまでも、人のために生きなければ気が済まなかった。
 芙美子のような我利我利亡者には、そんな姿が胡散臭く映ったのかもしれない。あるいは、誰からも慕われる大御所というポジションに、嫉妬したのかもしれない。どちらも、自分には縁遠いものだったから。
 私は理想ではなく、現実に生きる。
 そんな思いが「私は生きて巷の中でかぼちゃを食べています。」の一節に込められているように思う。
 ところで、かく言う芙美子だって、戦時協力はずいぶんしている。ただ、彼女の場合はお金が目的なのが誰の眼からみても明らかだった。その俗っぽさが、作家生命を救った。
 戦後社会、特に終戦後すぐは国策に乗った(あるいは乗らされた)文士たちはことごとく軍国主義者のレッテルを貼られ、公から追放された。抗議をしても黙殺だった。
 そして、時雨のように、すでに死んでいた人間は一億総懺悔のスケープゴートにされた。
 たとえば、尾崎一雄(注7)は昭和49年に行われた井伏鱒二(注8)との対談で、時雨を「軍国ばあさん」呼ばわりしている。
 私は、ここに戦後文壇の嫌らしさをみる。死者は反論できないのをいいことに、実像とは異なるイメージを流布する。そうすれば、生き残った人間たちは免罪される。
 だが、時雨をよく知っていた小説家の吉屋信子(注9)は、こんな風に書いている。

 もし、このひとがあの日本敗戦の日まで生きてのびていられたら、なんと言っただろうか。(軍部に踊らされた)などと口が裂けても言わなかったにちがいない。その代り例の取っておきのたんか口調で、――
「やるだけやって、敗けちゃったものはしようがないのよ! いさぎよく降参して巻きなおし、男どもしっかりしてよ!」
 ぐらいのことはさわやかに言うだろう……そして、敗戦という新事実の刺戟にも彼女はいきいきと飛びついたかもしれぬ。(『自伝的女流文壇史』より)

 私もそう思う。
 だが、残念ながら、戦後の文壇に、時雨の名誉回復をはかろうとする者はいなかった。
 於菟吉は持病が悪化し、時雨没後3年で後を追った。つまり、彼もまた戦中に亡くなったのだ。
「輝ク」のメンバーは、戦後それぞれの道を歩んだ。女流文学者として集うことはあったが、時雨のような強い目的をもって人々を組織しようとする者はもう現れなかった。
「輝ク部隊」の戦争責任は、時雨におっ被せられた。
 一方、数々の功績は誰も顕彰しなかった。
 教科書に「青鞜」は登場する一方、「女人芸術」はほぼ出て来ない。けれど、こちらの方がよほど重要な作家を生み、育て、活躍の場を与えている。
 ざっと名をあげるだけでも、林芙美子、円地文子、佐多稲子、吉屋信子、宮本百合子、望月百合子、尾崎翠などなど。まさに女流作家のドンだった。でも、みみっちい権力欲はなかった。
 もし、彼女たちのうちの一人でも、時雨再評価に動いてくれていたら、と思うが、きっと余裕がなかったのだろう。それぞれがそれぞれの位置で、再スタートを図らねばならなかったのだから。戦争はただ人が死ぬだけではない。それまでの人生のすべてを壊してしまう。
 でも、やっぱりちょっと薄情な気はしないでもない。結局のところ、この辺りの機微は敗戦の現実を知る人たちじゃないとわからないのかもしれない。

 ……それにしても、時雨さん。
 死ぬの、ちょっと早すぎやしませんでしたか?
 私は、あなたが戦後社会を――敗戦を終戦と言い換えて、我らは軍部に騙されていたと言い訳しながら白々しく日常に戻っていった同胞の姿をどう見たか、それが知りたかった。たいこを鳴らし笛を吹いた自分を、どう分析したのかも。
 あなたなら、イデオロギーに惑わされず、庶民の眼を失うことなく、かといって被害者ヅラするでもなく、正しい批判をすることができただろうから。
 もし、そんな著作が出ていたら、あなたは誰疑うことない「文豪」になっていたかもしれない。
 歴史にタラレバは無用だっていうけど、やっぱりこう思ってしまうのです。
 すべての女性のために、そして戦後日本のために、あなたには生きていてほしかった、と。

 最後に、代表作である『近代美人伝』の中から、ほとばしるような言葉を引用しておこう。

 世にはその境遇を問わず、道徳保安者の、死んだもののような冷静、無智、隷属、卑屈、因循をもって法とし、その条件にすこしでも抵触すれば、婦徳を云々する。しかし、人は生きている。女性にも激しい血は流れている。人の魂を汚すようなことは、その人自身の反省にまかせておけばよいではないか? わたしは道学者ではない故に、人生に悩みながら繊(ほそ)い腕に悪戦苦闘して、切り抜け切り抜けしてゆく殊勝さを見ると、涙ぐましいほどにその勇気を讃え嘉(よみ)したく思う。  (『近代美人伝』「マダム貞奴」より)

 マダム時雨。
 私も、あなたの人生を讃え嘉したく思います。

注1 岡田八千代(おかだ・やちよ)
明治16年(1883)、広島県生まれ。劇作家、小説家。明治35年「明星」に作品「めぐりあひ」を発表。また「青鞜」に参加。小説や戯曲を発表した。戦後は日本女流劇作家会会長を務める。昭和37年(1962)死去。代表作として戯曲「黄楊の櫛」、小説「新緑」など。兄に同じく劇作家の小山内薫がいる。
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注2 林芙美子(はやし・ふみこ)
明治36年(1903)、山口県生まれ。小説家、詩人。自伝的小説「放浪記」で人気作家になる。詳しくは『文豪の死に様』をご参照ください。
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注3 佐多稲子(さた・いねこ)
明治37年(1904)、長崎県生まれ。昭和3年「キヤラメル工場から」を発表。7年、共産党に入るが戦後に離党。代表作に「樹影」「時に佇つ」「月の宴」「私の東京地図」「くれなゐ」など。平成10年(1998)死去。
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注4 望月百合子(もちづき・ゆりこ)
明治33年(1900)、山梨県生まれ。パリ大学に留学、帰国後はアナーキスト系の批評家として活躍。戦後は翻訳者として活動した。平成13年(2001)死去。訳書にボードレール「ロマン派の絵画」など。社会運動家の石川三四郎は父。
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注5 長谷川春子(はせがわ・はるこ)
明治28年(1895)年、東京生まれ。洋画家。姉の長谷川時雨の紹介で鏑木清方に日本画、梅原竜三郎に洋画を学ぶ。昭和4年フランスに留学。挿絵や随筆もかいた。昭和42年(1967)死去。作品に「樺色の印象」「胡人胡歌」など。文筆もよくし、著作に「大ぶろしき」「恐妻塚縁起」などがある。
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注6 永井荷風(ながい・かふう)
明治12(1879)、東京生まれ。文筆家。アメリカやフランスを歴訪し帰国後、大学教授などを経て散人生活に入る。詳しくは『文豪の死に様』をご参照ください。
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注7 尾崎一雄(おざき・かずお)
明治32年(1899)、三重県生まれ。小説家。1933年に発表した『暢気眼鏡』で芥川賞を受賞。祖父の代までは神奈川県小田原市にある宗我神社の神官を務める家の出。1978年に文化勲章を受賞。代表作に『虫のいろいろ』『まぼろしの記』など。
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注8 井伏鱒二(いぶせ・ますじ)
明治31年(1898)、広島県生まれ。1929年「山椒魚」を発表、高く評価される。「ジョン万次郎漂流記」で1937年の直木賞を受賞。42年から1年間陸軍徴用員としてシンガポールに滞在。代表作に「さざなみ軍記」「多甚古村」「本日休診」。1966年に発表した『黒い雨』では、被爆の実情を日常的な視点を通して描き出した。同年、文化勲章を受章。平成5年(1993)死去。
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注9 吉屋信子(よしや・のぶこ)
明治29年(1896)、新潟県生まれ。栃木高女在学中から少女小説を投稿し始め、大正6年「花物語」でデビュー。昭和11年から発表した新聞小説「良人の貞操」で流行作家に。代表作に「鬼火」「徳川の夫人たち」など。昭和48年(1973)死去。
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