第20回
【老衰死・平穏死の本】苦節一〇年
2018.04.05更新
まもなく多死社会を迎える日本において、親や配偶者をどう看取るか。「平穏死」提唱者・石飛幸三医師の著作『「平穏死」を受け入れるレッスン』期間限定で全文連載いたします。
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本を「聞く」という楽しみ方。
この本の著者、石飛幸三医師本人による朗読をお楽しみください。
■苦節一〇年
私は身分保全の訴えを東京地方裁判所に提出し、主張が認められて常勤職員として勤務を続けられることになりました。しかし副院長の執務室は取り上げられ、中央病院が運営を受託していた都立民生病院の三階の物置だった部屋を当てがわれて“幽閉”されました。
二ヵ月ごとに、済生会側の弁護士が用意した「あなたはもうここの職員ではない」という書面を提示され、その都度こちらも弁護士に用意してもらった「私はここの職員である」という書面を渡し合うむなしい神経戦が数年にわたって続きました。
私が手術室に入ると、何かミスがあったら事を荒立てようとしていたのか、監視の目がつきました。人間は追いつめられると、かえって強くなります。
地裁、高裁、最後には最高裁で門前払いを食うまで、それから一〇年の間、外科医として臨床を続けながら、一方では済生会という組織の旧弊と闘いつづけました。しかし、なぜ自分がこのような目に遭うことになったのか、何度考えてもわかりませんでした。
ときどき、これは何かの間違いではないか、自分は長い悪夢を見ているのではないか、と思うこともありました。それは夢ではなく、厳しい現実でした。
幽閉部屋の窓の外を季節が移ろい、銀杏の葉の色が変わっていくのを眺めながら、これから自分の人生はどうなるのだろう、自分はどこまでこの状況に耐えられるだろうかと、苦しみもがきました。
本来なら日本の医療を代表する大組織のあり方が問われるべき裁判は、理事会の恣意的利害判断により論点をずらされ、なんと、私は組織の定年制に従わずに病院職員でありつづけようとしているという話にされて、敗訴しました。
上層部のやり方に怒りを覚えて私と同時期に裁判を起こしていた五人の同僚たちも、枕を並べて討ち死にに終わりました。
済生会には二重、三重の管理機構があり、粛正のチェック体制が機能していいはずなのですが、自浄作用が働くことはなかったのです。福祉医療の第一線で「患者のためのいい医療をしよう」「この病院をよくしていこう」という気概を持った者たちの声は、闇にかき消されました。
■あの試練があるから、いまがある
私は地位も名誉も失いました。自分の人生を全否定されたような苦渋を嘗めました。そしてどん底のなかで思いました。
これからどう歩むか、それこそ私という人間の生き方が問われる。私の残りの人生は、自らの生き方を通して変えていくしかない、と。
再就職先として、声をかけてくれた病院や大学もありました。しかし私は自分の意志で、特別養護老人ホームの常勤医になることを志願しました。
医療の本当の意味を見つめ直そうと思ったからです。
外科医療の最前線で、患者さんのピンチを救い、いのちの危機を救うことこそが医療だと思ってきた私が、一〇年の苦節を経て、老衰には、もう一つ別な医師の役割が求められていると考えるようになったのです。
私自身も歳をとりましたが、私が手術をしてきた人たちも、どんどん年老いていき、いずれは死を迎えます。どんな医療も、死に抗うことはできません。となると、最善の終末期医療とは何なのか。視点を変えて、いのちを見つめてみよう、老いと死に向き合ってみようと思いました。
あのせつなかった時代を私は“座敷牢の時代”と呼んでいるのですが、その間に、医療のあり方、医療の意味、そして人としての生き方について、しっかり考える時間を持つことができました。
一〇年間の試練が、私という人間を大きく変えました。あの時間がなかったら、いまの私はありません。
なぜいまになって昔のことを掘り起こして書こうとしたのか、それは私があの一〇年の試練の時を糧とできたと言いきれるようになったからです。
地位も、名誉も、そして第一線の外科医としての収入も失いましたが、それを惜しいとは思いません。おそらく人間としていまのほうが「よく生きる」ことができているという自負があります。
いまあらためて思います。極限の状況に追い込まれるからこそ、人間は普通に生きていたらなかなか気づけないこと、見逃しがちな大事なことに気がつくのです。逆境から立ち上がった人間が強いのは、もうこれ以上何も失うものはないというどん底を知っているからなのではないでしょうか。
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