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「平穏死」を受け入れるレッスン 自分はしてほしくないのに なぜ親に延命治療をするのですか? 石飛幸三 音声配信中

第21回

【老衰死・平穏死の本】悲嘆の底を抜けた先には希望がある

2018.04.12更新

読了時間

まもなく多死社会を迎える日本において、親や配偶者をどう看取るか。「平穏死」提唱者・石飛幸三医師の著作『「平穏死」を受け入れるレッスン』期間限定で全文連載いたします。
「目次」はこちら

本を「聞く」という楽しみ方。
この本の著者、石飛幸三医師本人による朗読をお楽しみください。

■悲嘆の底を抜けた先には希望がある

 星野富弘さんという詩人・画家がいます。心に染み入る詩を書き、柔らかな花の絵を描く方です。星野さんはそれを、口に筆をくわえて書かれるのです。

 体育の先生だった星野さんは、先生になったばかりのころ、指導中に頸椎を損傷し、首から下が麻痺した身体になりました。当時の気持ちをこう表現されています。

 (以下、引用)

 大阪万博があった1970年。23歳の時、私は首から下が動かなくなるという大きな怪我(けが)をしてしまいました。絶望のあまり、「生きていても仕方ない。早く死にたい」と思いました。

 しかし「死にたい」いくら思っても時間がくれば腹は減るし、心臓は正確に動いているし、身体は一いつしようけんめい生懸命生きようとしているのです。自分の意思とは違う大きな力が、私の身体を生かそうとしているのです。

 枕元(まくらもと)にはいつもお見舞(みまい)の人が持って来てくれた花がありました。じっと見ていると、それまで気がつかず見過(みす)ごしていた名前も知らない雑草の花の中まで、何か大きな力が働いているような気がしました。

 (『星野富弘 愛の贈りもの 新編 風の旅』より)

 (引用ここまで)

 これを読んだとき、私は頭をガツンと殴られたような衝撃を受けました。人間自体、自然の一部のちっぽけな存在です。私たちは、自分の意志ではコントロールできない、何か大きな力によって生かされているのだと思います。

 こんな詩もあります。

 (以下、引用)

 いのちが一番大切だと
 思っていたころ
 生きるのが苦しかった
 いのちより大切なものが
 あると知った日
 生きているのが
 嬉しかった

 (『鈴の鳴る道』より)

 (引用ここまで)

 いのちを大切にするというのは、生きることに固執することではないのです。

 むしろ、いのちよりも大切なものに気づくことなのです。

■どんな状況でも、人間としての尊厳と生きる希望があればいい

 忘れることのできない患者さんがいます。それは先天性動静脈瘻という病気で、医師として経験したなかでも、もっともたいへんな経過をたどった方でした。

 伊藤さん(仮名)が最初に東京都済生会中央病院にやってきたのは、まだ二〇代のときでした。

 唇に一センチ大の血管腫ができて、形成外科で切除手術をすることになったのです。出血の勢いが強そうだということで、血管外科医の私がサポートに入りました。手術で簡単に取れて退院していきましたが、それはこの恐ろしい病気との序盤戦にすぎませんでした。

 半年くらいすると、前よりもふくらみが大きい血管腫が前の手術創の上にできていました。それを手術で取ると、数ヵ月後にはさらに大きな血管腫ができる。

 何度取っても、またふくらんで、しかもどんどん広がっていくのです。

 その状況が、加速度的に進みます。病気がどう進行するのか先はまったく見えない。肉体的にも精神的にも相当つらかったはずです。

 彼は有名な電機メーカーの技師でした。仕事のこと、家族のこと、これからどうなっていくのかということ、いろいろ考え、不安もあったでしょう。自分の運命を呪いたくなったはずです。しかし彼は「考えてもしようがないことだから」と病気に対して非常に冷静で、いつも前向きでした。

 そのうちに失明しました。やがて口を完全にやられて食べることができなくなり、胃ろうになりました。呼吸がむずかしくなり、気管切開をして声も出せなくなりました。それでもパソコンで意思を伝えてくれました。みごとな精神力の持ち主でした。

 裁判に敗れ、約三三年間勤めた済生会中央病院を去ることになったとき、私がいちばん心残りだったのは、自分が最後まで診ることができなくなってしまった患者さんたちのことでした。なかでも彼のことは非常に気がかりでした。私は一言謝りたいと思いました。

 病院を去って三ヵ月後、私は彼の病室に見舞いに行きました。失明し、声も出せない彼は、手探りで紙を探して、マジックでこう書いてくれました。

「先生、心配しないでくれ。おれは大丈夫だ」

 なぜこんなふうに強く生きられるのだろう、その強さに私は頭が下がりました。

 彼は私を「先生」と呼んでくれましたが、生きる姿勢の見事さということでは、彼のほうこそ私に勇気と励ましを与えてくれる先生でした。

 自宅に戻って生活していたとき、朝、息をしていないことに家族が気づいたそうです。六〇歳でした。三五年余の闘病の幕が静かに下りました。

 最期まで希望を捨てず、尊厳をもったかたちで生を全うした方です。

 脊椎カリエスに苦しんだ俳人・正岡子規は、死の直前まで書き続けた日記『病牀六尺』(岩波書店)のなかで、こう書き残しています。

 (以下、引用)

 悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、
 悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた

 (明治三五年六月二日付)

 (引用ここまで)

 いかなる場合も平気で生き抜く――。それは先ほどの星野富弘さんにも、いま話した伊藤さんにも共通していることのように思われます。

 ゲーテにこんな言葉があります。

 (以下、引用)

 なんらかの方法で死を解決した人の生き方は明るい。

 (引用ここまで)

 星野富弘さんの言う「いのちより大切なものがあると知ること」。

 正岡子規の言う「いかなる場合にも平気で生きていること」。

 ゲーテの言う「なんらかの方法で死を解決すること」。

 それらを知ることが、あるいは人間が生きる意味なのかもしれません。

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著者

石飛 幸三

特別養護老人ホーム・芦花ホーム常勤医。 1935年広島県生まれ。61年慶應義塾大学医学部卒業。同大学外科学教室に入局後、ドイツのフェルディナント・ザウアーブルッフ記念病院、東京都済生会中央病院にて血管外科医として勤務する一方、慶應義塾大学医学部兼任講師として血管外傷を講義。東京都済生会中央病院副院長を経て、2005年12月より現職。著書に『「平穏死」のすすめ 口から食べられなくなったらどうしますか?』(講談社)、『「平穏死」という選択』『こうして死ねたら悔いはない』(ともに幻冬舎ルネッサンス)、『家族と迎える「平穏死」 「看取り」で迷ったとき、大切にしたい6つのこと』(廣済堂出版)などがある。

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