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もっと文豪の死に様

第3回

中島敦――虎、ようやく起き上がるも……(後篇)

2022.02.11更新

読了時間

『文豪の死に様』がパワーアップして帰ってきました。よりディープに、より生々しく。死に方を考えることは生き方を考えること。文豪たちの生き方と作品を、その「死」から遠近法的に見ていきます。
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中篇からの続き

 敦篇も三回目。今回は短かった三十代を見ていきたい。
 さて、敦がモデルとみなされる「山月記」の主人公・李徴は狷介な人物として設定されるが、人付き合いという点で二人は雲泥の差だ。敦は、狷介どころか、むしろコミュ力の王様のような人間だった。
 それを証言する記録については、学生時代の友人の追悼文や勤めた女学校の有志が敦の死後に設立した敦会で発行した追悼集などなど枚挙に暇がないわけだが、代表して親友の言葉を引用しておこう。

 トンは、明かるかった。トンと共にいるとき、トンと話しているとき、だれも彼も、そして彼自身も、明るかった。(中略)彼トンは、人と共に動き、話すとき、自分の本質に逆らってまで、常に社交家として努力していたのではない。
 彼の知的素質、彼が自分で意識していた性格的限界や気質の特異さは、どうであろうと、他者の私の感じていたところでは、人間との接触面において、見るとき、彼は、常に明るかった。
 彼と私とに共通な親しい友人の一人は、一高時代から、喜びを以て言うのを常にしていた。
「トンといっしょにいると、何をしても、話ししていても、おれの目の前が、パッと開けてくる。明るくなる。将棋をさしていても、麻雀をやっていても、川柳の話をしていても、トンといっしょだと、明朗になる。」 (「敦のこと」釘本久春)

 トンとは敦の学生時代のあだ名だ。豚さんのように肥えていたとかではなく、敦を音読みしたものである。名前の音読みはインテリの伝統だ。
 他の人たちの証言を見ても、敦は人当たりがよく、才走るけれどもひけらかすことはなく、座談の名手で親しみやすい人物と認識されていたことがわかる。やっぱり陽キャだ。
 一緒にいる人間を楽しくさせる才覚は特別なもので、こればっかりは生来の素質がなければできない。ある種のカリスマなのかもしれないが、威圧感はなく親しみやすさで惹きつけるタイプだったのだろう。それは、威圧には人一倍敏感な女学生たちに人気があったという面にも現れている。
 人間関係に恵まれた青年期。そんな中、父、妻に続く、中島敦文豪化最後のキーパーソンが現れる。
 釘本久春だ。先ほど学生時代の友の敦評を引用したが、あれを書いた人だ。
 登場は最後になったが、敦の文豪化にもっとも重要な役割を果たしたのは実は彼である。というより、彼がいなければ絶対に名を残せなかった。
 最初に述べた通り、敦が「国民的作家」になれたのは“教科書作家”として今に至るまで命脈を保っているからだが、敦の遺作を教科書に載せるよう働きかけた人物こそ、この釘本だったのだ。
 なぜそんなことができたかというと、釘本が文部省のえらい人だったからだ。
 では、どうしてそんなことをしたかというと、敦の死を早めたのは釘本……と少なくとも釘本本人は考えていたからである。
 敦は死の一年半前に南洋パラオに行った。最近でいうところのワーケーション、仕事を兼ねた転地療養のつもりだったが、逆に喘息を悪化させてしまった。そのパラオ行きを勧め、万事整えたのは釘本だった。だから、釘本は自分が敦の死を早めたと思い込んだ。
 だが、それは事実ではない。敦自身もパラオ行きが己の健康に悪影響を与えるなど微塵も思っていなかっただろう。
 だから、釘本に責任は全くない。
 ないが、自責の念に駆られた。
 そして、責任を取ろうとした。
 そんな篤い友情と男意気が、敦を文豪にした。
 と、並べ立てるだけでは何が何だかだと思うので、前後の事情を順に追っていこう。

甘えと後悔と権力と

 敦と釘本は一高で同級生として知り合い、仲良くなった。友人の多い敦だが、釘本と特に心が通じ合ったのは、彼もまた母のいない子だったからかもしれない。釘本の場合は死別だが、母という絶対的存在を人生のスタート地点で失ってしまった寄る辺なさを共有できた。また、幼少時から神童レベルの秀才として常にトップを走っていたのも、文学青年であったのも同じだ。
 そして、釘本も友人が多い社交的な人物だった。学生時代に結婚相手を見つけ、卒業前に最初の子を設けたのも同じ。
 似た者同士、心が通じ合う何かを感じたのではなかっただろうか。
 一高で知り合った二人は、ともに校内の文芸誌に小説を寄せた。敦がそうであったように、釘本もまた芸術至上主義的傾向を持つ文学青年だったようだ。その後、敦は病気のため、釘本に遅れること一年で東京帝国大学国文科に入学したが、友として交流は続いた。人気者の敦と、世話好きだったという釘本はよいコンビだったのかもしれない。
 卒業後、釘本は中学校教師、大学講師を経て文部省に入省。その頃にはすでに文学青年の面影はなかったそうだが、世話好き気質は変わらなかった。というより、戦前の官僚という誰よりも強い立場に立ったことで、積極的にあちらこちらの友人たちの世話を焼き出したのだ。
 敦にパラオ行きを斡旋したのも、その一環だった。
 昭和14年(1939)、敦もいよいよ三十路に入ったが、病状の悪化によって欠勤が続くようになり、経済的に大きな不安を抱える状態だった。そうした中、敦の胸で文学への思いが以前に増して強くなっていく。命幾ばくもないことを予感せざるをえなかったのだろう。
 ようやく重い腰を上げた敦は、この時期から次々と名作をものし始めている。
 しかし、それでもなお作家デビューに向けて自ら積極的に動こうとはしなかった。
 結局1941年、つまり死の前年、パラオに向かう前に鎌倉在住の小説家・深田久彌に原稿を見せに行き、それが最終的にはデビューに繋がったのだが、それでさえ。

 中島さんの原稿を深田久彌氏に紹介したのは私です。これは深田氏と私が鎌倉の同じ町内に住み、大佛次郎氏の世話をしていた写真同好会、写友会にともに入っていたのが縁でした。釘本氏がそのことを知り、中島さんに書き溜めている原稿を深田氏に見せるよう強く奨めたのでした。しかし中島さんはなかなか行こうとしなかったため、最初私が連れだって深田氏のところに行き、不在で北畠さんに言付けたというわけです。(三好四郎「中島敦先輩のこと」)

 学生時代の友人たちに尻を叩かれなければ、行動に移らなかったのである。
 専門家に見てもらって「箸にも棒にもかからない」と言われるのが怖かったのだろうか? 短歌での大言壮語はどこにいった、と問い詰めたくなるようなチキンぶりである。
 だが、敦の名誉のために特記しておくと、彼は己のこうした弱さを十分自覚していた。27歳の時に脱稿した「狼疾伝」にはこんな一節がある。

 ふん、まだ三十になりもしないのに、その取り澄ました落ち着き方はどうだ。(中略)世俗を超越した孤高の、精神的享受生活の、なんどと自惚れているんだったら、とんだお笑い草だ。行動能力が無いために、世の中から取り残されてるだけのことじゃないか。世俗的な活動力がないということは、それに、決して世俗的な欲望迄が無いということではないんだからな。遺族な欲望で一杯のくせに、それを獲得するだけの実行力が無いからとて、いやに上品がるなんざあ、悪い趣味だ。追いつめたれた孤立なんぞは少しも悲愴でなんかありはしない。(「狼疾伝」より)

 動かない自分、動けない自分の不甲斐なさに誰よりも歯噛みしていたのは、彼自身だったのだろう。
 だが、甘え体質の彼は、やっぱりまだ動けなかった。寿命の先が見える状況になるまで「甘えの構造」に浸り続けたのである。
 1940年には第二子(生まれて三日目に亡くなった女の子がいたので正確には第三子だが)が生まれ、どうにかして安定した経済状況を得る必要に迫られていた。しかし、折しも時局は太平洋戦争開戦直前。戦時体制で先行き不透明な中、病弱では希望する年収を得られる職に就けるか覚束ない。そうこうしているうちに冬になり、寒さにやられたのか発作がいよいよひどくなって、翌1941年3月にはとうとう休職に追い込まれた。職場は復職に1年の猶予をくれたが、それが意味ないことは敦自身が実感していただろう。
 そう長くはない余命を思うと職業作家を目指したかった。だから、がんばって原稿を書き、世に出る努力をし始めた。しかし、家族を養わなければならない。いつ日の目を見るかもわからない「作家志望」身分に安閑としていられない。
 そんな敦の窮状を救うべく釘本が用意したのが、南洋パラオでの現地生徒向け国語教科書編纂という職だった。
 1941年、この年の12月に日本はマレー半島のイギリス軍への攻撃、さらに真珠湾奇襲をし、破局への第一歩を踏み出すわけだが、敦がパラオに旅立ったのはそのたった半年前のことだ。
 家族宛の手紙を読む限り、物価高や戦争の気配などで、南国でのんびり楽園気分を味わう、とはいかなかったようである。
 だが、それよりも敦を失望させたのが、植民地での日本人の傲慢と、喘息の症状がまったく軽減しなかったことだった。
 敦は、当時のインテリエリートとして標準はより少し先進したヒューマニティの持ち主だった。よって、現地の人々を下に見て、力で押さえつけようとする現地日本人の振る舞いには眉をひそめた。かといって、人種差別から完全に自由だったわけではない。彼もまた、原住民を未開人と考えていた。人道主義的立場から「救うべき対象」として見ていたに過ぎない。おそらくこれは、妻に対する態度に共通している。妻に対しても当時の男性としては優しく振る舞っているが、自分より下の人間であるという意識は常にあったし、それに疑問を持つことはなかった。三十歳時点での敦の限界はここにあったと言える。しかしながら、横柄で不遜な同胞の態度に嫌悪感を示し、時局にも冷淡な目を持っていたという点で、やはり頭一つ出る理性と道徳心の持ち主だったと言ってよいだろう。
 一方、暖かい気候が喘息を改善させるだろうと信じてはるばる南島に来たというのに、まったく好転する気配はなく、相変わらず発作が起き続けた。南洋で原稿を書くつもりだった。でも、それも思う様にはいかなかった。これもまた敦を失望させた。
 ただ、敦の喘息症状を現存する資料の範囲内でみると、ひとつの特徴が浮かび上がってくる。
 それは、旅の途中は発作が起きない、ということだ。
 旅はいくら楽しくともやはり体に負担がかかるし、必ずしも空気のよい場所にばかりいけるわけではない。それでも症状が現れないということは、彼の喘息症状を引き起こす大きな原因はストレスだったのではないか、と予測されるのである。根拠は薄弱だが、どうにもそんな気がして仕方がない。
 結局、南洋での日々は敦の思う通りにはならなかった。だがそれでも官僚としての高給は中島家の経済状態を回復させたし、敦に新たな出会いももたらした。
 友の配慮はまったく無駄ではなかったのだ。だから、普通ならここで頑張ろうと一念発起しそうなものだが、敦はそうしなかった。結局一年も経ないうちに日本に帰ってしまうのだ。ここにもやはり甘えが見え隠れする。
 だが、この帰国がなければ文豪・中島敦は生まれなかった。
 帰国は1942年、つまり死の当年の3月だ。死去は12月だから、9ヶ月しかその後の活動期間がなかったことになる。帰国前の2月には、深田に預けていた原稿が雑誌『文學界』に掲載された。さらに、5月には長編「光と風と夢」も掲載され、上半期の芥川賞候補になった。残念ながら受賞は逃したものの、一躍注目の新人となったのは間違いない。
 こうした流れに力を得たのか、敦は恐るべきスピードと熱量で仕事をした。7月には筑摩書房から作品集『光と風と夢』、11月には第二作『南島譚』を上梓した。病身だったことを考慮に入れないでも、とんでもないペースだ。
 だが、快進撃はここまでだった。無理がたたったのか、それとも再び寒くなってきた気候に体がもたなかったのか、急激に症状が悪化し、病院に入院。翌12月4日に発作の末に死去。
 享年33。
 ようやく甘えから脱し、本腰を入れ始めたその時に命が絶たれた。
 田人ではないが、どれほど悔しかったことか。他人事ながら胸に迫るものがある。
 また家族や友らがどれほど嘆いたことか。父の詠嘆は先に紹介したとおりだ。妻は悲しいだけでなく、幼子二人を抱えてどうすればいいのか呆然としたことだろう。
 そして、釘本は悔やんだ。自分の「配慮」は結局友の命を縮めただけではなかったか、と。
 だが、結論からいうと、敦はこの後始まる戦時下の物資不足の中を生き抜けたとは思えない。よしんばどこかに疎開したとしても、薬も食料も段々手に入らなくなり、弱った体を保てたはずがないのだ。
 おそらく、敦の場合、早世は免れ得なかっただろう。
 むしろ経済的不安を一時でも救い、南洋の地で改めて創作への思いを確認できたから、死の直前の爆走が可能になった。当然、遺族はそれをよく理解していたし、感謝すればこそ、恨む気持ちなどかけらもなかったはずだ。もちろん、敦当人も。
 それでも、釘本の「すまない気持ち」は拭えなかった。
 それが中島作品教科書掲載への原動力となった。
 文部省官僚として終戦を迎えた釘本は、文部省の日本語教育部門で重鎮となっていく。
 1946年4月には新憲法の作成に参画。日本を立て直すための作業の中枢に入り込み、1947年に文部省教科書局国語科ができると、その初代課長となった。それ以降、国語教育や国語研究の分野で官僚兼研究者として豪腕を発揮する。
 戦後制定された新仮名遣いや当用漢字の制定は、実は彼が先導したものだ。つまり、戦後文化に浴した人間全員――つまりいま生きている私たちの誰一人として釘本の仕事の影響を受けていない者はいないのである。
 ある意味、戦後国語の父ともいえるが、ゆえに一部の守旧派からは日本語の破壊者とみなされ、忌み嫌われた。
 おもしろい資料がある。1954年(昭和29)に出された文芸誌『群像』に「現代国語批判」と題した座談会記事があるのだが、その出席者に釘本の名があるのだ。他の出席者は佐藤春夫、中野重治、武田泰淳、三島由紀夫。綺羅星の如き文学者が並ぶ中、釘本は戦犯ポジションで参加しているわけだが、議論の中で口達者な文学者たちを向こうに全く引けを取らないどころか、むしろ彼らの認識のいい加減さを突く様子などは堂々としたものである。
 釘本には、戦後の日本語教育、つまり日本人の再生の一翼を担った(この時点ではまだ道半ばだが)という自負があったのだろう。
 そんな人間が、中島敦を教科書に紛れ込ませたのだ。
 いや、そんな人間だからこそ、中島敦を教科書に紛れ込ませることができたのだ。
 繰り返すが、死んですぐの中島敦は、ほぼ無名の新人だった。
 たとえば絶筆となった「章魚の木の下で」を掲載した『新創作』詩はその死について編集後記で150字にも満たない文字数で触れている。編集者もほとんど敦の状況を把握していなかったのがわかる内容だ。また、敦の死後「弟子」を掲載した『中央公論』誌もやはり後記で死に触れているが、追悼というより驚きを感じさせる文面になっている。深く悼むほど、編集者も敦を知らなかったのだろう。
 けれども、釘本は早い段階から敦の名を後世に残す決意を固めていた。
 戦中、昭和18年にはすでに動き始め、少年誌に敦が長男・格に対して南洋から送り続けた絵葉書を編纂し、記事として載せる段取りを整えた。タイトルを「南洋のお話――格君への手紙」と決め、前文まで用意していたが、折しも敗戦の色が徐々に強くなり始め、もうそんなのんびりした出版物を許す時局ではなかった。結局、企画は流れてしまう。
 戦後すぐは官僚として多忙を極める中、悲願である「敦の顕彰」にもなかなか時間を採れなかったに違いない。
 そんな時に教科書編纂の責任者という大任を任され、そこに敦の作品を入れようとしたのは彼としては必然だったろう。
 それに、敦の作品は様々な面で「戦後の教科書」にふさわしかった。
 戦時中に戦争協力をしたとみなされた作家たちは公職を追放されたが、敦はまだそうした役割を負わされる前だったからスティグマは一切なかった。しかも――これは大変好都合なことだったと思うが――遺した作品や日記の文章に、日本人が植民地に対して行った政策を批判する視点があった。これは、戦後文壇で評価を受けるためのパスポートになったし、教科書掲載への徴兵検査に甲種合格できる最大要素でもあった。
 内容自体も中国古典に材を取り、端正かつ知的な文章だ。封建時代が舞台であっても、封建制度を賛美するようなところはなく、もっぱら近代青年の苦悩を描いている。おまけに、文学として優れているし、ポピュラリティもある。早い話、おもしろい。
 戦後教育の教材としては無敵だ。無敵ゆえに今日まで残った。
 結局のところ、中島敦は、封建時代的家族主義に守られて作家となり、帝大ホモソーシャルの人間関係によって文豪となった。肉親と友、二つの「甘えられる対象」に支えられて、ようやく生まれた文豪なのである。
 繰り返しになるが、文豪候補は数多いる。
 だが、文豪として残れるのは時代の先駆者たる才能があったか、あるいは「甘えの構造」の中に居場所を確保できた作家だけだ。
 あくまで感覚的な数字だが、敦のケースはその複合で、前者3割、後者7割だと私は思っている。
 愛されても、理解はされない。それが敦の自己認識だったかもしれない。
 だが、実際には理解者にも、賛美者にも恵まれていた。それでもなおまだ自分が恵まれていないと感じたなら……それはきっぱり「甘え」だと断じてよいのではないだろうか。そして、この甘えは往々にして近代家父長制とホモソーシャルに守られた男性に多く発現する。中島敦はまさに「甘えの構造」から最大限の利益を得て、文豪になった作家だった。ファンから総スカンをくらいそうな結論だが、私としてはそう思わざるを得ない。
 では、その世界に生きられなかった作家たちはどうなったのか。
 次回から順に、「甘えの構造」からパージされた二人の女性作家を見ていきたい。

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