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もっと文豪の死に様

第4回

長谷川時雨――女が女の味方をしないでどうします(前篇)

2022.02.25更新

読了時間

『文豪の死に様』がパワーアップして帰ってきました。よりディープに、より生々しく。死に方を考えることは生き方を考えること。文豪たちの生き方と作品を、その「死」から遠近法的に見ていきます。
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長谷川時雨(はせがわ・しぐれ)
小説家、劇作家、随筆家、編集者、雑誌主宰者、社会運動家。明治12(1879)年、東京生まれ。昭和16(1941)年、東京の病院で病死。享年61。代表作に「近代美人伝」「旧聞日本橋」など。

 長谷川時雨。
 この名を知るのは、日本文学にある程度深い興味がある人に限られるんじゃないかなと思う。中高の教科書にはまず出てこないし、大学でも一般教養レベルの文学史だと取り上げられることは稀だろう。
 名前だけでは男だか女だか、そもそもどの時代の人なのかすらわからないかもしれない。
 そんな、たいして有名でもない人を「文豪」の枠に入れていいのか、というご意見もあろう。
 だが、いいのです。
 私がぜひとも入れたいから、いいのです。
 なぜなら、長谷川時雨は、絶対に再評価されなければならない人だから。戦後の日本文学界における時雨への無視に近いような冷淡さは、斯界の歪みを全方向的に象徴していると私は考えている。
 前回連載の『文豪の死に様』では小林多喜二の回がかなりプンプン怒りながら書いた回だったが、今回はこの長谷川時雨回がプンプン回になる。
 そのつもりでお読みいただけると幸いである。

 さて、そろそろ時雨の人物像をきっちり御紹介しよう。
 長谷川時雨は1879年、明治12年に東京は日本橋で生まれた女性だ。樋口一葉の七つ下、永井荷風と同い年である。
  彼女は小説家であっただけでなく、劇作家、随筆家、編集者、さらに社会運動家としても活躍した。
 劇作家としては女性として初めて歌舞伎座での正式公演を勝ち取った人であり、随筆家としては「旧聞日本橋」という資料的にも文学的にも貴重な一群の文章を残し、編集者としては主宰した雑誌「女人芸術」から多くの重要な女性作家を排出した。近代女性の地位向上にも努めた。
 つまり、日本近代文学のパイオニアの一人であり、偉大なオーガナイザーであり、時代を切り開いたアクティビストでもあった。すごい女性なのだ。
 よって、名士として辞書辞典類にも項目が立っている。
 そこで、平均的な評価を確認するため、複数から引用したい。

 まずは「デジタル大辞泉」。

劇作家・小説家。東京の生まれ。本名、ヤス。三上於菟吉の妻。雑誌「女人芸術」を創刊し、女流作家の団結と地位向上に努めた。戯曲「花王丸」「さくら吹雪」など。

 次は「日本国語大辞典」。

劇作家、小説家。本名ヤス。東京出身。三上於菟吉の妻。明治四一年(一九〇八)「覇王丸」が好評を得、以来劇作家として活躍。特に舞踊劇にすぐれた。昭和三年(一九二八)「女人芸術」を創刊。新舞踊劇「玉はゞき」「江島生島」など。

 次、「日本人名事典」

明治-昭和時代前期の劇作家。
明治12年10月1日生まれ。長谷川春子の姉。明治38年戯曲「海潮音」が「読売新聞」の懸賞で特選,以後「覇王丸」,「操」(のち「さくら吹雪」と改題)などを発表。夫三上於菟吉の援助で昭和3年第2次「女人芸術」を復刊,主宰し,林芙美子らをそだてた。(中略)著作に「近代美人伝」など。

 次、「日本大百科事典」。

劇作家。本名ヤス。東京日本橋生まれ。秋山源泉小学校で読み書きそろばんを習ったのち、竹柏園に入門し古典を学ぶ。結婚に失敗し、1901年(明治34)『うづみ火』を『女学世界』に投稿し入選。05年戯曲『海潮音』が『読売新聞』に入選、上演されてのち劇作家として出発し、『さくら吹雪』(1911)で地位が定まる。16年(大正5)三上於菟吉 と出会い同棲。23年、岡田八千代とともに『女人芸術』を出すが大震災のため2号で廃刊となり、のちにこれを引き継いで『女人芸術』(1928~32)を発行。同誌廃刊後は『輝 (かがや) ク』を発刊。[尾形明子]

 次、「世界大百科事典」。

劇作家,小説家,随筆家。東京生れ。本名ヤス。(中略)18歳のとき,鉄成金のもとに嫁したが,意に染まず,小説,戯曲を書きはじめる。離婚の翌年,1908年に発表した《花王丸》が歌舞伎座で上演され,女流劇作家としての地歩を築いた。(中略)19年通俗小説家三上於菟吉と世帯をもち,28年には三上の援助で第2次《女人芸術》を創刊(第1次は23年創刊),林芙美子,円地文子を育成するなど,その美貌と華やかな活動が注目をあつめた。《女人芸術》に連載した回想録《旧聞日本橋》が高く評価されている。[前田愛]

 さて、わざわざ五つも引用したのには、もちろん理由がある。
 読み比べて、何か気づくことはないだろうか。
 ? なんか変なところがあった? と首を傾げた方は、デジタル大辞典より引用した次のプロフィールと引き比べながら、再度読み返してもらいたい。

よさの‐てっかん【与謝野鉄幹】詩人・歌人。京都の生まれ。本名、寛。落合直文の門に入り、浅香社に参加、短歌革新運動を興した。のち新詩社を創立し、「明星」を創刊、主宰。妻晶子とともに明治浪漫主義に新時代を開き、新人を多く育成した。歌論「亡国の音(おん)」、詩歌集「東西南北」「紫」、訳詩集「リラの花」など。

 なんで与謝野鉄幹??? 長谷川時雨と何か関係が?
 いえ。直接は関係ありません。交流はあったけれど。
 見てほしいのは、履歴の書きっぷりだ。
 鉄幹のプロフィールにおける妻・晶子は「協力者」あるいは「伴走者」として添え書きされる程度で、彼は徹頭徹尾独り立ちしていたようなニュアンスだ。だが、ご存知の通り、「明星」の創刊者として一時代を築いた人ではあるが、才能は晶子に及ばず、後年はその影に隠れた存在だった。オーガナイザーとしての評価は不動だが、晶子がいなければ今ほどの高名は残らなかっただろう。ついでに言うと、経済的にも晶子におんぶに抱っこだった。
 一方、時雨はどうか。
 五つのうち、二つまでが本人の業績の前に「三上於菟吉(おときち)の妻」を置き、また「夫の援助で」雑誌を創刊したと書いている。これではまるで時雨が“於菟吉ありき”の人だったようだではないか。
 しかし、実像はまるで異なる。
 まず時雨と於菟吉――菊池寛に並ぶ戦前の大ベストセラー作家だが――がカップルだったことは紛れもない事実だ。周囲も夫婦として認識し、扱っていた。
 だが、彼らは一度も入籍をしていない。時雨は長谷川家の戸籍筆頭者だった。そのため、於菟吉とは終生内縁関係で通した。また、同棲していたといっても毎日ひとつ屋根の下で暮らしていたわけではない。於菟吉はいわゆる悪所や料亭での居続け、はたまたよそに囲っていた女の家で過ごすことの方が多かった。数ヶ月もの間、一度も帰らないこともざらで、ある時など時雨が「於菟吉、連絡せよ」と新聞広告を出すに至るようなことまであった。その間、時雨は一家の大黒柱として稼ぎ、主婦の役目も果たしていた。社会的活動もこなしていた。関東大震災後は於菟吉の老母と兄弟の世話さえ見ている。
 於菟吉は、駆け出しの一時期を除けば、時雨に経済的苦労はかけなかった。高額納税者番付の常連、今でいうなら宮部みゆきさんや東野圭吾さんレベルの人気作家の稼ぎは大したもので、書けば書くほど儲かった。その金は、生活費として時雨にも流れていた。だが、一般的な妻のように生活のすべてを「夫」の稼ぎに頼っていたわけではない。経済的には自立していたのだ。
 また、雑誌「女人芸術」が於菟吉の資金提供によって実現したことも事実である。しかし、その内実は援助というより、ほぼ慰謝料だったと考えてよい。あるいは長年の献身に対する謝礼と表現する方が穏当か。なにせ於菟吉自身が後年「時雨には、放蕩のどぶさらい役ばかりさせてきた」と編集者相手に漏らしていたほど、迷惑をかけまくっていたのだ。後ろめたさが出させた金であることは明白である。
 さらに言うなら、於菟吉は時雨がいなければ世に出られなかった、あるいは出られたとしてももっと遅れたはずの人だ。12歳年下の名もない作家志望だった於菟吉は、今をときめく時雨に一目惚れして猛アタックした。そして、ハートを掴んだ。明治女は一度惚れたら、その男を立てるのに全力を尽くす。於菟吉が早々に作家として活躍できたのは、すでに人気も人脈もあった時雨が惜しみなく与えた物心両面の「援助」あってのことだった。
 また、人気作家となってからも、於菟吉が原稿を落としそうになるとしばしば時雨が代筆したという。だが、それに気づく者は編集者にも読者にもいなかった。自身の筆力もさることながら、於菟吉の小説を芯から理解していなければできる技ではない。
 けれども、三上於菟吉を辞書で引いても「時雨の援助で作家として独り立ちできるようになった。時には代筆をさせていた。晩年に病気で寝たきりになってからは、時雨にすべて面倒を見てもらっていた」なんてことは書いていない。時雨への“援助”だけはあいかわらずしっかり書いてあるが。
 先に挙げた中で唯一、於菟吉との関係性を正しく記し、かつ第一期「女人芸術」から晩年の大仕事である雑誌「輝ク」までをきちんと書いているのは、「日本大百科事典」に執筆した尾形明子氏のみである。その尾形氏は時雨研究の第一人者であり、時雨再評価の重要性を世に訴えていた数少ない研究者だ。なお、「三上の援助で」と特筆している前田愛氏は、名前からはわからないと思うが、男性である。
 ここまで読んでもらえれば、私が何を言いたいかわかってもらえるかと思う。
 時雨が低評価に留まる理由のひとつに、女性、特に配偶者のいる女性を男性の付随物のように扱う社会風潮があるのは間違いないのだ。
 時雨は何のコネもない文芸コンクールへの一般応募によって見出され、その後も己の才覚によって世に出た人だ。親の助けも、夫の助けも、これっぽっちも受けていない。いや、親も夫もむしろ障害だった。そして、於菟吉と出会った頃には、彼女はすでに押しも押されもせぬ大物作家だった。
 つまり、最初から最後まで、自分の足で立ち続けた女性だったのだ。「女人芸術」も於菟吉が金を出したのは事実だが、他一切は時雨が仕切っている。
 於菟吉は、時雨にとって、良くも悪くも大きな存在だ。流行作家になってからは時雨も於菟吉に頼っているが、同時にスキャンダルの渦にまきこんだいう意味では足を引っ張る側面があったともいえる。なにせ、浮気を繰り返す一回り下の夫を持つ年上妻として世間の好奇の目にさらされ続けたのだから。
 それなのに、後世の辞書には「於菟吉ありきの女」として書かれてしまうのだ。
 こんな不公平があってよいものだろうか。
 だが、時雨が戦後文壇で早々に忘れられてしまった原因はそれだけではない。
 あとふたつほど、大きな原因があったと私は考える。
 ひとつは戦争が終わる前に死んでしまったがゆえに、戦中の文学者たちの「戦争協力」の責任を体よく押し付けられてしまったこと。もうひとつは、彼女が日本の文壇を支配した大学系文学サークルと深い関係を持たなかったことである。彼女は大学を出ていない。それどころかまともな公教育を一度も受けていない。だから、中島敦の回で触れたような「帝大ホモソ」とは無縁のまま花を咲かせた人だった。
 つまり。
 女であること。
 死人に口なしで戦争責任を押し付けられたこと。
 文壇を牛耳るメインストリームからは外れていたこと。
 この三つの悪条件が重なった結果、正当な評価を受けられなかった。私はそう思っている。前回取り上げた中島敦とは真逆の経緯をたどった作家が、長谷川時雨なのだ。
 よって、今回は彼女の死を通して、日本文学界の“特殊事情”を、じっくりあぶり出していきたいと思う。

愛国者・長谷川時雨

 時雨が亡くなったのは昭和16(1941)年8月23日のことだ。
 翌朝の朝日新聞には訃報と岡田禎子による追悼文が載った。訃報は全文を転載しよう。

長谷川時雨女史 女流文壇の大先輩 三上於菟吉氏夫人
長谷川時雨女史は去る十九日以来肺炎で慶応病院に入院中二十二日午前三時四十分死去した、享年六十三、告別式は来る二十四日午後一時から三時まで芝円松寺で「輝ク部隊葬」をもって執行する。女史は日本橋生まれの生粋の江戸児、独特の絢爛な筆で早くから明治文壇に異彩を放ったものだが、その後女流作家を糾合して思想文藝雑誌「女人藝術」を発行、今になってから同人達をもって組織した銃後婦人団体「輝ク部隊」を率いて活躍していた。代表作は曾て本紙に連載して好評を博した「春帯記」をはじめ「近代美人伝」「一葉全集評伝」などがある。

 一方、岡田禎子(ていこ)は追悼文で時雨の人となりを、「いつもいつも強気で、ただただ前進的であった。さあっと水をきって瀧をのぼりゆく鯉の元気で、毎日を生きている人であった。それでいて、その感性にも思考力にも、不思議な柔らかさがあった。文化人としての柔らかさである」とした上で、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と並べて古き佳き江戸の継承者と位置づけている。また、プライベートでは脳卒中で倒れて半身不随となった於菟吉を献身的に看病し、支えたことに触れつつ、死の直前まで戦争支援活動に力を入れていたと紹介して結びとしている。なお、岡田禎子は時雨が活躍の場を与えた女性劇作家だ。
 さて、これらの記事には、死後の評価が不当に低くなった事情の萌芽が見えるのだが、それに触れる前に彼女の死を巡る前後の事情を整理しておきたい。

 まずは死因だ。訃報では肺炎となっているが、それを引き起こしたのは白血球顆粒細胞減少症という病だった。名前の通り、白血球の一種である少食細胞(ミクロファージ)が異常に減少し、そのために感染症に罹りやすくなってしまうのだそうで、肺炎は関連して起きる症状のひとつである。
 原因は再生不良性貧血や白血病などの血液疾患のほか、肝硬変や自己免疫疾患、またウイルス感染などがあげられている。時雨の場合、発症の原因がなんだったのかは明確ではない。
 ただ、周囲の人々は極度の疲労が病を招いたと考えた。
 皆がそう思うほど、晩年の時雨は大車輪で働いていたのだ。
 もっとも熱を入れていたのは中国戦線にいる兵士への慰問活動だった。
 時雨が亡くなった昭和16年といえば、日本が中国大陸侵略に明け暮れていたさなかであり、12月8日には太平洋戦争が始まっている。
 昭和12年に盧溝橋事件が起こり、日本は中国への派兵を本格化させた。昭和13年には国家総動員法成立、15年には大政翼賛会が発足。小林多喜二が官憲に虐殺されて6年経っていて、もはや思想の自由は失われていた。それでもまだ、敗戦直前ほどの物資不足はなく、国民はむしろ対米英開戦を待ち望んでいた。そんな時期だ。
 つまり、時局は完全に戦時だが、まだ大きな敗戦を経験せず、日本人の大多数が「大東亜共栄圏」だの「八紘一宇」だのの空虚なお題目を本気で信じていたのだ。
 時雨もその口だった。
 時雨の訃報が載った新聞の一面には、欧州戦線で同盟国ドイツの進撃が順調であることを伝える一方、挙国一致体制の重要性と旧体制の打破を叫ぶ論説や記事が散見する。
 そうそう、これ結構忘れがちだと思うんですけど、戦前戦中の日本人にとって軍国主義政策は硬直した社会を立て直すための立派な「改革路線」でした。21世紀の今も各政党が盛んに改革推進を叫んでますけど、いったい彼らが何を改革しようとしてるのか、しっかりと見極めないと「なんにせよ改革はいいものだ」程度の認識でいたら、百年前と同じ失敗を繰り返しかねないので気をつけたいと思います。
 時雨も戦争には前のめりだった。
 だが、彼女が支援しようとしていたのは、軍国主義ではない。
 彼女は愛国者ではあったが、軍国主義者ではなかった。
 彼女の視線は前線で戦う兵士たち、そして銃後の女性たちに向かっていた。戦時下において、厳しい前線に送られる名もない兵卒と、実質社会を守る役割を負わされながら表向きはただ守られているだけであるように過小評価されている女性たちだ。
 時雨に引っ張られて慰問活動をした「輝ク部隊」の前身は、「輝ク」という女性向けリーフレットを制作していた女性作家/編集者グループである。このグループのことは後ほど詳しく触れるが、基本は時雨を慕って、あるいは利用するために集まってきていた女性たちだと考えてよい。思想的にはマルキスト寄りが多いものの、アナーキストやノンポリも入り混じっていた。共通点は文芸を志していること、そしてフェミニストであることだ。
 なお、女性による戦争協力団体というと愛国婦人会や国防婦人会、大日本婦人会などが有名だが、それらとは一線を画していた。時雨が「文化による協力」を強烈に意識していたためだろう。「輝ク部隊」で組織しようとしたのは「知性婦人」だったのだ。
 時雨は昭和13年の年末に行われた女性文化人たちの忘年会(実質は「時雨を励ます会」だったそうだが)への御礼として、こんな一文を書いている。

「その年(著者注 昭和13年のこと)、われらの女性史にも、明治以後の新時代における、黎明期を破り、実に赫奕たる足跡を記してゆくこととなった。それは、一をとって、めであがむ質のものではなく、女性一般の真の力が社会的に押し上げてきた来た喜びである。今こそ、女性の共(ママ)力がなくて強い国はないということが、いかなる者にも知れて来たのだ。母の力、妻の力、そしてすべての女性の、ものに湛える大きな大きな力!」

 枢軸側/連合軍側を問わず、男性が戦場に送られたことが皮肉にも女性の社会進出を後押したのは、いまや現代史の常識だ。日本も同じ傾向にあった。そうした空気を感じとった時雨は、戦時協力こそ女性自立を社会に認めさせる好機と捉えたのだ。なお、同様の戦略を取った人に、日本における婦人運動の草分けである市川房枝がいる。
 その後の成り行きを知る身としては、なんとも能天気というか、甘すぎるとしか言えない認識だが、後知恵でとやかく言うのはアンフェアだろう。なによりもフェアであることを重んじた時雨に叱られてしまう。
 時雨は、文学者であると同時にオーガナイザーであったと冒頭で述べたが、彼女が組織する対象は常に女性だった。
 目的はひとえに女性の社会的自立と男女同権の実現。
 それが叶うのなら、思想的背景はどうでもよかったのだ。
 なぜなら、彼女のフェミズムは、自らの経験から生み出された自然分娩的フェミニズム、そして江戸っ子気質による義侠心のフェミニズムだったからだ。
「女が女を助けないでどうしますか」。
 それが時雨の原理だった。
 行動の人だった時雨は、慰問袋の前線送付や遺族のためのチャリティを開くだけにとどまらず、自ら慰問団を結成し、四十日もかけて中国の各基地を転々と訪問した。もちろんVIP待遇だったが、そこは戦地のこと、若い人でも音を上げるような強行軍だったらしい。六十歳を過ぎた時雨がただで済むはずがない。時には発熱して寝込む場面もあった。それでも表面上は疲れた素振りすら見せず、団長として表舞台に立つと同時に、演芸会の裏方や慰問袋の封入作業といった雑事まで黙々とやっていたという。
 さらに帰国後も執筆活動はもとより、各地での講演(もちろん戦争賛美のアジテーションである)や寄付募集運動など、できることはなんでもやる勢いで働き続けた。戦場で見た若い兵士たちへの感動が、原動力となったのだ。
 時雨は当時の人らしく天皇崇拝者であったし、日本がアジアのよき盟主になれるものと信じていた。植民地の人々へも好意的な目を向けているが、それでも未開人と見下す部分があった。その辺りは中島敦と変わらない。いや、敦のような哲学的裏付けがない分、極めて単純な人だ。
 けれども、それをもって彼女を断罪するのはあまりに酷というもの。
 時雨が当時としては極めて偏見が少ない、公平な人だったことは行動を見ればわかる。
 一部の自称愛国者が中国人や朝鮮人を公然と差別し、三国人なる蔑称を好んで使っていたその時期に、時雨はそれらの国から留学してきていた女子学生たちを保護支援する活動をしていた。
 また、宮本百合子などマルキストたちとの交流を絶とうとせず、発表の場さえ与えた。それが当時、いかに危ういことだったか。宮本などは執筆活動を当局から止められていた時期である。だが、海軍と太いパイプを持ち、また自身が各方面に顔が利く時雨は持てる力を大いに利用した。あえて傘下に入れることで、彼女たちを守ろうとしていた一面すらある。警察に捕まった時は差し入れなどもした。
「輝ク」の前に主宰していた雑誌「女人芸術」は左翼系執筆陣に門戸を開きすぎたせいで三度の発売禁止に見舞われ、それがゆえに廃刊の憂き目を見ている。そんな経緯があったのだから、「輝ク」では左翼思想を持つ人達を一掃してもよさそうなものなのに(そして、その方が時局的には「正しい」選択だったのに)、そうはせず、最後まで彼女らを見放そうとしなかった。
 与謝野晶子による熱烈な愛国短歌を載せたのと同じ号に、宮本百合子に書かせた当時としては表現ギリギリの時局批判の一文を掲載している。
 時雨には、そういう人としての大きさとバランス感覚があった。
 そして、弱きものへの同情心があった。

 日本の歩みと共に、あの歩兵が、炎熱のもとにも、酷寒の日にも、黙々と歩みつづけて、前線へ前線へと押し出していくように、我々もいつまでも息を切らさずに、その後の線に働かねばすまぬと感じました。(「女性知識人に求める活動――輝ク部隊について」より引用)

 慰問活動を通して時雨は海軍との関係を深めていったが、海軍の上層部と同席した際にも自分たちが支援する対象はあくまでも前線の兵士だけだときっぱり断言したとのエピソードが残っている。
 とてもかっこいいと思う。
 だが、このかっこよさはとても危険だ。
 時雨は進歩的なフェミニストだった。
 だが、それは理論に裏打ちされたものではなかった。いわば感情的フェミニズムだった。
 そうであるがゆえに相手の思想背景関係なく救いの手を差し伸べる懐深さがあった一方、容易に体制に利用されてしまう甘さもあったのだ。
 そして、この甘さが、死後の彼女の評価に災いした……のだが、ひとまず先に進もう。
 慶応病院に入院した時雨を看病したのは於菟吉、ではなく、妹で画家の春子と、甥の仁だった。仁は弟の子だ。母親を早くに亡くしたので、時雨が母同然に育てあげた。於菟吉は看病どころか病院に来ることさえできなかった。5年前に脳血栓で倒れ、以来右半身不随の身だったのだ。
 入院のため自宅から出る時、すでに歩くことさえできなかった時雨は、担架に乗せられ於菟吉が病み伏せる部屋を通って玄関まで運ばれたそうだが、それまで意識混濁していたのが於菟吉の横を通るという時に突然目を覚まし、「どこへ連れてくの。いや、いやだよ」と部屋に掛けられた御簾を掴んで抵抗したという。これが今生の別れになると本能的に悟ったのだろうか。
 於菟吉はその様子を凍りついたように眺めるだけだったそうだ。
 入院後は昏睡状態が続き、たまに意識が戻っても夢うつつの状態で、残した仕事の心配ばかりしていたという。
 そして、わずか三日間の入院で63歳の生涯を閉じた。
 一時代を築いた女傑の、あまりにもあっけない最期だった。

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    白兎

    時雨さんといえば、少女投稿雑誌「女学世界」から這い上がり、ものかきとなったなったひと。松原岩五郎が編集長の時、目をつけており、育てようとしたが、劇作家になる、と断わった逸話もある。少女のころから人生の駆け引きをわきまえていたのですね。

    返信
著者

門賀 美央子

1971年、大阪府生まれ。文筆家/書評家。主に文芸、宗教、美術関連の書籍/雑誌記事を手掛ける。主な著書に『文豪の死に様』『自分でつける戒名』『ときめく妖怪図鑑』『ときめく御仏図鑑』など。共著に『史上最強 図解仏教入門』『仏教人物の事典』など多数。

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