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もっと文豪の死に様

第8回

尾崎翠――私はひとつ、本物の文豪を見せてやりましょう(前篇)

2022.05.13更新

読了時間

『文豪の死に様』がパワーアップして帰ってきました。よりディープに、より生々しく。死に方を考えることは生き方を考えること。文豪たちの生き方と作品を、その「死」から遠近法的に見ていきます。
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尾崎翠(おざき・みどり)
明治29(1896)年、鳥取県生まれ。大正9(1920)年「無風帯から」を発表。昭和8(1933)年「第七官界彷徨」を出版し注目される。昭和46(1971)年、老衰で没。享年74。

 長谷川時雨の初回は「この人が文豪? って首を傾げる人もいるでしょうけど、私がそう決めたからそうなの!」みたいな虚勢気味のスタートだったのを覚えている方もおられよう(ご愛読まことにありがとうございます)。
  で、今回の尾崎翠。
 知名度の点で言えば時雨より上とは思うが、誰もが知っている作家ではないし、ましてや読んだことがある人となるとやっぱり厳しい数字が出てくるのではないかと思う。
 でも、この人が文豪かどうかと問われたら、私は、前回と違い、まったく臆することなくごくごく自然にこう応えるだろう。
「ええ、文豪ですよ。それも世界レベルの」
 あらあら、また虚勢かしら、ウフフフと思われた向きには、違いますよ、本気ですよ、と静かに反論しよう。

 尾崎翠は、世界文学のレベルに達している数少ない日本人作家である。

 今回こそは、自信を持って断言する。
 異論が出てくれば「あらあら、ウフフフ」と目を細めて余裕たっぷりに微笑もう。わかってないのね、あなた、ってやつである。
 たぶん、一緒に微笑んでくれる人はたくさんいることだろう。なんなら徒党を組んで微笑んで見せられるはずだ。実際やったらキモいけど。
 だが、それほどの才能の持ち主が、なぜメジャー級として認識されていないのか。
 それは、彼女がまさにこれから、というところで、文学の道からドロップアウトしてしまったためだ。そして、ようやく再評価されようとした時に力尽きてしまった。
「このまま死ぬのならむごいものだねえ」との言葉を残して。
 今回は、大輪の花を咲かせかけて、咲ききれなかった天才の死を検証していきたい。

20世紀POPカルチャーの萌芽

 さて、この人はれっきとした文豪と言い切ったが、残念ながら教科書には載らない作家であることも事実だ。だから、きっと魅力に触れたことがない人も多いだろう。そこで、今回はその魅力を紹介するところから始めたい。
 まずは、これから。

 おもかげをわすれかねつつ
 こころかなしきときは
 ひとりあゆみて
 おもひを野に捨てよ

 おもかげをわすれかねつつ
 こころくるしきときは
 風とともにあゆみて
 おもかげを風にあたへよ

 これは「歩行」という小説の冒頭に置かれた詩だ。作中では(よみ人しらず)となっているが、もちろん翠の作である。
 しばらくはこの美しい詩を何度も読み返し、心ゆくまで堪能してもらいたい。
 で、堪能し終えたら、先にお進みください。
 小説の内容はというと、儚い恋にとらわれて憂いに沈んでいる(のわりには妙にサバサバしている)少女が、家族や知人にお使いを命じられてあちらこちらに出かける数時間の様子を、淡々と、メランコリックに、でもユーモアを交えながら描いている。
 登場人物たちはみんなどこか変である。
 だけれども、特に大きな事件が起こるわけでもない。
 タイトル通り、ただ女の子が歩いているだけの作品ともいえる。妙といえば妙だ。
 ただ、あえて今どきの言葉で表現するならば、本作はどこまでも「エモい」。
 甘いような、苦いような、でもやっぱり無味なような、なんとも表現できない茫洋としたセンチメンタリズムが全篇を覆っているのだ。
 本作から受ける印象をどう言葉に落とし込めばいいのか。
 なかなか悩ましいのだが、あえていうならやはり少女漫画的、になるのだろうか。
 これは何も私ばかりの言ではない。翠が再評価されて以来、各方面で指摘されている事である。
 例を挙げるなら、著名編集者の松岡正剛氏は書評「千夜千冊」で、翠の代表作「第七官界彷徨」をこんな風に表現している。

 そこが花田清輝にしてわからなかったのは、この時代、まだ少女マンガというものが爆発していずに、花田は竹宮恵子や萩尾望都や大島弓子が実のところは尾崎翠の末裔であることを知る由もなかったからである。これは大目に見てあげたい。
 けれども、その後の世代には、とくに少女マンガを少しでも読んでいる世代なら、小野町子が赤い縮れっ毛の少女で、長兄の一助が精神分析医、次兄が家の中で肥料研究に余念のない二助、従兄の三五郎が音楽受験生という設定を聞いただけで、ハハン、これこそはあの少女マンガ特有の疼くような感覚世界の原型であるのだということが、すぐにピンとくるはずなのだ。

 百戦錬磨の書評家をして「少女マンガ特有の疼くような感覚世界」との表現をなさしめるエモさの塊が、翠作品の中核になっているのだ。
 なお、いきなり花田清輝が登場するのは、尾崎翠再評価の最大の功労者が花田清輝だからであり、「そこが花田清輝にしてわからなかった」とは花田が「第七官界彷徨」を高く評価しながらも、その美点を明確に言語化できなかったのを受けてのことだ。
 21世紀の今、「少女漫画的」が文学に対する否定表現ではないことはわざわざ断らなくても大丈夫だろうが、一方この「少女漫画的」なる言葉が何を指しているかについては説明が必要だろう。少女漫画といっても幅が広いからだ。
 尾崎翠を評価するような層にとって、少女漫画とは「花の24年組」界隈の漫画を意味する。そして、私もここではその流れで使っている。
 少女漫画界の「花の24年組」とは萩尾望都、竹宮惠子、大島弓子、山岸凉子、坂田靖子など、1970年代から活躍しはじめ、漫画界に革命的インパクトを与えた偉大な作家たちの総称にして尊称だ。
 彼女たちは“女子供の慰み事”に過ぎなかった「少女漫画」を、普遍的価値を持つ文学/アートにまで高めた。花の24年組が生み出した諸作品はすでに古典化しているし、少なくとも現代日本の人文知においては基礎教養レベルといってよいだろう。
 それらの作品に共通する魂の萌芽が、翠の作品には宿っているのだ。発表時期が1930年前後だったことを思えばどれだけ「新しい」感覚を宿していたのかわかるのではないだろうか。
 だが、同時に、清少納言が「枕草子」で見せたのと同質の抒情性と批評性も、翠の作品にはある。
 たとえば、これ。

 どこまでも白い白い道がつゞいてゐました。朝の陽があたりいちめんに降りそゝいで雪はこがねにきらめいてゐました。さみしかつたけれど一人でその美しさの中を行つていることが嬉しうございました。

 これは、初期の散文詩「雪のたより」冒頭部分だが、季節と抒情の絶妙な重ね合わせに、平安時代の才女が寒い朝の慌ただしさを好ましく描写した文章が思い出されはしないだろうか。
 美しい景色が、寂しいけれども、嬉しい。二律背反のようでいて実は全く矛盾ない感情の動きが、端的に書き表されている。
 だが、この手の「女性的な瑞々しさ」だけが翠のすべてではない。「現文壇の中心勢力に就いて」では、柳生十兵衛もまっさおな切っ先の鋭さを見せる。

 日本の自然主義はその移入に依って、明治に至ってなお残されていた元禄文学の伝統を破ったところにその業績を認むべきで、自然主義の教える所は必ずしも永久不変の教義ではない。(中略)
 現代の日本文壇の中心勢力は、何と言ってもやはり自然主義である。其処には父親の遺産をそのまま継承した多くの自然主義の後取り息子たちがあって、父親の仕事をそのまま踏襲している。彼等はあまりに跡取り息子らしい息子である。彼等は遺産を守ることのみ知って、身辺を省ることを知らない。そして二十年一日の如く踏襲的作品をものしている。それは日常生活の些末な記録であり、日記の引き伸ばしであるに過ぎない。(中略)
 現在の日本文学の悲哀は、残骸となった自然主義の固守である。それは作家の時代への感受性の欠乏を意味する。

 拍手喝采したくなる評である。こういう批判を読むと、叙任に右往左往する貴族たちを冷笑的に描写した「枕草子」の「正月一日は」の段などが頭をよぎる。翠は批評も得意で、とりわけ大好きだった映画評などは、現代の映画評論家に評中の文字五、六字づゝ、技量上達の霊符として呑ませたき、と思うほどである。
 え? お前が真っ先に呑めって? 
 すみません。
 とにかく、である。観察眼と感性と知性。すべてが融合した境地に、マイノリティからの視点が加わった時に爆誕する一級文学。それが尾崎翠の文学といっていいのではないだろうか。そして、そうした特徴がもっとも端的に表れるのが先ほども出てきた「第七官界彷徨」なのだ。
 この小説は、こんな風に始まる。

 よほど遠い過去のこと、秋から冬にかけての短い期間を、私は、変な家庭の一員としてすごした。そしてそのあいだに私はひとつの恋をしたようである。
(中略)
 私はひどく赤いちぢれ毛をもった一人の痩せた娘にすぎなくて、その家庭での表むきの使命といえば、私が北むきの女中部屋の住者であったとおり、私はこの家庭の炊事係であったけれど、しかし私は人知れず次のような勉強の目的を抱いていた。私はひとつ、人間の第七官にひびくような詩を書いてやりましょう。

「私はひとつ、人間の第七官にひびくような詩を書いてやりましょう。」ですよ。
 かっこいい。
 それに、この書き出しの素晴らしさといったら。すごすぎて、「すき……」と壁で背中をこすりながらモジモジしてしまう。
 そもそも、ある特定方向に鋭敏な感性を持つタイプなら、「第七官界彷徨」なるタイトルだけでもう心臓がトゥンク……とするはずだ。
 ……と、いきなり暴走気味ですね。ついてこられていない方、多数でしょう。
 なので、ここでひとつ、あらすじを説明いたしましょう。
 語り手の「私」は名を小野町子という。同音の名を持つ女優さんがいるが、たぶん関係ないと思う。
 引用した部分にある通り小野町子は「赤いちぢれ毛をもった一人の痩せた娘」で、「変な家庭」で「この家庭の炊事係」を務めている。
 では、変な家庭とはどんななのだろうか。
 それは、町子の兄と従兄の3人が住む男所帯の下宿である。東京で科学や音楽を学ぶ彼らの面倒を見るため、妹の「私」が女中代わりに送り込まれたのだ。
 こういう風に説明するとなんか妹が女工哀史よろしく虐げられるストーリーが展開しそうだがさにあらず。妹は妹で、よい口実ができたとばかりに喜んで上京し、文学を志しながらゆるい家政婦生活を送っている。
 ただ、この家にはとんでもない欠点があった。
 ひとつは音楽家志望の従弟が弾くピアノが調律されていないせいでひどい音を出すこと。
 もうひとつは農学を研究する次兄が家の2階で火入れする肥(つまり糞)の匂いがプンプン漂っていることである。
 騒音と悪臭。
 都会生活における二大悪徳である。人を雇えず、家族が出向く羽目になるのも当然だ。
 ついでに登場人物全員の個性が強すぎる。主張も強い。泣き虫で気の弱そうな町子だって、実は超マイペースである。家族といいつつ、まあ見事に凸凹だ。そして、若い人がたいていそうであるように、それぞれが恋をしたり、失恋したりしている。でも、なんだかんだいいながら、みんな結構お気楽である。
 そんな彼らがひとつ屋根の下で時に喧嘩し、時に語り合いながら、のびのびと暮らす様子を描くのが、主眼といえば主眼なのかもしれない。
 だが、本作はほのぼのホームドラマでも、単純な青春ものでもない。
 主に考察されるのは「失恋」の人間心理や行動への影響であり、その補助線となるのが蘚苔類(注1)の恋愛心理とか、蘚苔類的性情の人間への遺伝とか、隣人と蜜柑の関係とか、そんな感じなのである。
 そして、町子は詩にするべき第七官界を求めて、心の旅路を歩んでいく。
 と、まあ、こんな風に説明されても、たぶん何を言っているのかわからないだろう。
 私もわからない。
 冒頭の言葉通り、町子が失恋するまでの話といえばそれまでなのだが、失恋は最後の方におあいそ程度に出てくるだけだ。とにかく、一読しただけでは掴みどころのない作品なのである。
 でも、綴られる言葉の引力は相当なもので、よくわからないままでも読み通したくなるし、読み通した後はよくわからなくても満足のため息が自然と漏れる。
 だから未読ならば、私の駄文なんぞより先に作品を読んでくださいって話になってしまうのだが、「そんなわけのわからない小説なんて、読みたくない」という向きもいることだろう。
 そこで提案するのが、「私」を大島弓子、兄たちを坂田靖子の絵柄で想像しながら読む方法である。
 あの脱力感あふれるとぼけたキャラクターたちを当てはめると、登場人物たちが無理なく動き始めるのだ。たぶん、一度でも両先生の作品を読んだことがあれば、自然と入り込めるだろう。作品に流れるセンスやテンポがそっくりだからだ。
 お二方の作品を読んだことがないならば、大島作品なら「秋日子かく語りき」、坂田作品なら「叔父様は死の迷惑」あたりを読んでみて、下地を作ってからトライしてみてほしい。これらの作品は電書化されている。つまり、今この文章を読む環境下にいるなら、即座に読めるのである。
 大島作品や坂田作品の垢抜けたテイストは、昭和を感じさせてもそれが古さには繋がらない。それと同じように、翠作品も戦前の空気が漂ってはいても、ちっともカビくさくないのだ。
 他にも短編小説「山村氏の鼻」なんてのは芥川的な味があるし、戯曲「アップルパイの午後」はチェーホフっぽい。初期の自然主義風自伝的作品群の風景描写には、優れた筆力が自ずと表れている。
 翠の作品には、時代を超えた「モダニズム」、正確には時代に左右されない真のモダニズムが宿っているといえるだろう。これに異を唱える人はまずいないのではないかと思う。
 だが、非常に遺憾ながら、この稀有なモダニズムはほんの数作に示されただけで終わってしまった。
 なぜそうなったのか。次回はその経緯を見ていきたい。

注1:蘚苔類(せんたいるい)
植物のコケのこと。蘚はスギゴケ類(葉と茎が分化しているタイプ)、苔はゼニゴケ類とツノゴケ類(葉状体タイプ)。
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著者

門賀 美央子

1971年、大阪府生まれ。文筆家/書評家。主に文芸、宗教、美術関連の書籍/雑誌記事を手掛ける。主な著書に『文豪の死に様』『自分でつける戒名』『ときめく妖怪図鑑』『ときめく御仏図鑑』など。共著に『史上最強 図解仏教入門』『仏教人物の事典』など多数。

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