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もっと文豪の死に様

第12回

尾崎翠――逍遥し、離人する文学の誕生(後篇その3)

2022.08.12更新

読了時間

『文豪の死に様』がパワーアップして帰ってきました。よりディープに、より生々しく。死に方を考えることは生き方を考えること。文豪たちの生き方と作品を、その「死」から遠近法的に見ていきます。
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 昭和3年、西暦で言えば1928年となるその年、頼みの親友・文子は結婚して東京を離れた。それから2ヶ月後に発表した「詩人の靴」は、これ以降の「逍遥文学」とでも言うべき一群の嚆矢となる作品だ。
 主人公の名は津田三郎。若い男性詩人である。西洋館の二階にある屋根裏部屋の住人で、外出や歩行を嫌っている。けれども、部屋にある窓から外を覗いては景色を見ることは好きで、眼で原っぱや杉林を散歩し、そこに暮らす人々から「世の中の匂い」を嗅いでは、気持ちをリフレッシュする。
 なかなかの陰キャ設定ではあるが、彼は間違いなく翠の分身だ。
 詩人志望で、二階にある狭い部屋に住み、散歩が嫌い。
 これらはすべて翠の特徴と一致する。そして何より名前が「三郎」であること。三が入る男性名は翠にもっとも近い男性サイド分身の記号と私は考えている。翠ワールドの完成作である「第七官界彷徨」で、主人公の小野町子ともっとも距離が近い従兄の名が三五郎であるのは、決して偶然ではない。何となれば、翠は物語の構成や要素をきっちり詰めて書くタイプの作家だったからだ。
 さて、この「詩人の靴」は過渡期的作品であるとはいえ、「第七官界彷徨」に繋がる要素をすでに多く含んでいる。中でもとりわけ注目したいのは、次の部分だ。

 彼の頭と心臓が彼の目のさめている限り絶えず繊細に緻密に動いているに反して、彼の体は非常に無精にできていた。殊に外出とか歩行に関することに対しては、彼は恐怖に近い嫌悪を持っていたので、そのために彼は時々窓から外界を眺める必要があった。つまり三郎が窮屈な思いで肩を屈めてまで時々窓に行くのは常人の散歩の代用であった。
(中略)
 それで、窓から首を出した津田三郎は、眼で原っぱや杉林を散歩することにしていた。この特殊な散歩によって薄暗い屋根裏の思索に疲れた三郎の頭と心臓は鮮(あた)らしい空気に触れ、体は常人が散歩しただけの運動を得ることが出来た。幸い彼の体はそんな風に作られていたのである。

 繊細で緻密な頭と心臓。これは精神過敏の一表現だろう。過敏は解離の症状の一つである。
 そして、窓から外界を見る独特の散歩方法は単なる空想散歩ではない。まるで実際にその場で景色を見ているような描写が続くのだが、その部分が、どうにも解離の一症状である「離隔」に近い感じがするのだ。
 解離性障害の症例を見ていくと、空想が空想以上の現実性を持ち、身に迫る体験として知覚する人が多いことに驚く。そうした例について、精神病理学の研究者で、日本における解離性障害治療の第一人者である柴山雅俊氏は著作『解離性障害――「うしろに誰かいる」の精神病理』で、次のように述べている。

 臨床をしていると、解離の人たちはこういうことが、普通の人よりも、はるかに自然にできるのではないかと思えてしようがない。彼女たち(注1)の心は時間的にも空間的にも自由に翔びまわることができる。ありありとした実感をもって心を翔ばすことができる。
 もちろん心という実態がこの現実世界から時間・空間的に離れるわけではないが、あたかもそうであるかのように、空想・表象(感覚刺激なしに心に浮かぶ像)がまるで見えるほどに頭に浮かび、さらにはそのなかへ深く没入することができる。

 さらに、患者の言葉や、ギュスターヴ・フローベールの『書簡集』の記述を引き合いに出して、

 彼らは人間関係の不具合を背景として、自然の中の知覚や表象の対象と合一する。

 としている。
 この言葉はそのまま「第七官界彷徨」をはじめとする後期作品群の本質を言い表しているように感じてならない。
「詩人の靴」の物語自体は、三郎のとある誤解によって恋愛コントのようなオチになるのだが、最後の最後で三郎と作者、つまり翠がぴったりと重ねられる。
 この作品以降、他にも解離の影を感じさせる作品が並ぶ。
 たとえばエッセイ「捧ぐる言葉」は、独の劇作家ゲオルグ・カイザーと佐藤春夫について、ユーモアたっぷりのファンレターのような書きっぷりで綴り、その饒舌っぷりがなんとも愉快なのだが、やはり解離アンテナに引っかかってくる記述が登場する。

 妙な一夜が時々私の屋根裏を訪れます。すると私の頭は私の部屋と同じになり(それとも私の頭の中にいつも王位を占めている耳鳴りが、私の部屋を作り変えてしまうのかもしれません)あなたの二つの世界が代る代る消えつ浮かびつします。螺旋形の頭のと、多角形の心臓のと。

「多角形の心臓」は萩原朔太郎の詩「酒精中毒者の死」(『月に吠える』所収)に見える表現だが、「螺旋形の頭」は恥ずかしながら出どころがちょっとわからない(ご存知の方はご教示くださいませ)。いずれにせよ、翠が春夫作品から感じ取った知性と感性をこう表現したのだろうが、そこはいいとして、問題は前段の「妙な一夜が時々私の屋根裏を訪れます。すると私の頭は私の部屋と同じになり(それとも私の頭の中にいつも王位を占めている耳鳴りが、私の部屋を作り変えてしまうのかもしれません)」である。
 この時期から翠は頭痛が持病になり、それが後の頭痛薬ミグレニンの過剰摂取につながっていくのだが、耳鳴りはその前段階だったのだろう。解離に悩む人には耳鳴りと頭痛を訴える人が多いという。
 さらに、自分の頭を「部屋」と表現している部分。ここが非常に興味深い。
 というのも、解離性同一性障害当事者の手記などを読んでいると、彼らは別人格の脳内での居場所をしばしば「部屋」に喩えるのだ。
 もちろん「私の部屋を作り変えてしまう」を作家一流の比喩表現とだけ捉えることはできる。しかし、自分の体験を色濃く反映させる彼女が、自らの内部に「他者がいる部屋」を感じていて、それをそのまま書いたとしてもおかしくはない。
 実は、この表現は「第七官界彷徨」における長兄・一助と次兄・二助の語らいシーンの原点ではないかと思うのだが、これについては後ほどまとめて触れたいので、先に他の作品を見ていこう。

さっさと屋根裏にお帰りなさい

 先ほど少し触れた「木犀」は次兄が死去する少し前に発表された作品だ。この時期は次兄の看病をしていたが、作中にその影は見当たらない。描かれているのは淡くて苦い恋の顛末と、東京でひとり生きる侘しさ、虚しさだ。だが、凡百の自然主義作家と異なり、翠はここでも彼女らしいユーモアを発揮している。その最たるものは彼女が心の恋人とする喜劇王チャーリー・チャップリンとの脳内会話シーンだろう。

「チャアリイ、私は牛に似たN氏の影を追っています。申込みをしりぞけられて牛の処に帰って行った彼を。だからあなたを愛しているのです」
「あまのじゃくめ」チャアリイは杖で木犀の香を殴りつけた。「何だって俺とジョオジアのようにハッピイエンデイングにしないのだ。だから俺は地球の皮という場所が嫌いなんだ」
「私だって地球の皮という場所が嫌いだからN氏の牧場より屋根裏の方がよかったのです。あなた方のハッピイエンデイングだって地球の皮をはなれた幕の中ぢゃありませんか」
「ぢゃさっさと屋根裏にお帰りなさい」
 チャアリイは杖で私の部屋の方を指し、それからくるりと踵を返して淋しいトロイカのつぶやきを杖で小刻みに切りながら歩きだした。

 牛に似たN氏とは、主人公の旧友であり、一度は別の女性と結婚したものの離婚し、主人公に結婚を申し込んできた男性である。彼は、昔も一度は求婚を考えたことがあったが、主人公が「あまりに人間に背中を向けていたものだから」諦めたと語っている。
 主人公の方はというと、N氏を憎からず思っているものの、屋根裏=今の自分から出ることをためらって、プロポーズを受けることができない。そうした「現実」を、脳内のチャアリイと会話することで自覚していく。
 そして、この部分でもまた、解離性障害患者の手記に書かれていたことを思い出した。
 おそらく、脳内で自分と対話する経験や習慣を持つ人は少なくないはずだ。だが、その場合、対話する自分と自分は同一意識下で仮に別人格として扱っているだけで、双方ともにコントロール可能であるはずだ。だが、解離性障害の患者の場合、コントロールできない「誰かの発言」が脳の中にこだまする。障害の障害たる所以だ。
 だが、中にこんなおもしろい事例があった。
 その人も頭の中で突然話し始めるコントロール不可能な誰かに長らく困惑していたのだが、ある日突然、その「誰か」と自己意識の間で会話が成立するようになった、というのである。この会話は、完全に他人とする会話と同じで、自己意識の方は自身の考えとぴったり重なるが、「誰か」は何を言うかわからないし、制御ができない。けれども、会話はできる。つまり、「自分の中の他人」として明確に独立するのである。
「木犀」と同年の12月に発表した「新嫉妬価値」では、とうとう耳鳴りは擬人化され、「彼と私は一つ肉体の中に棲んでいる」と表現されるようになる。耳鳴りは「彼」、つまり男性としての「人格」を与えられたわけだ。
 こうした中、1930年に代表作となる「第七官界彷徨」の執筆が始まり、翌年発表される。
「第七官界彷徨」の主な登場人物はすでに紹介済みだが、念のためもう一度おさらいしておこう。
 主人公は詩人を目指す小野町子。その町子の長兄で精神科医として分裂心理を専門とする一助、人糞肥料を研究しながら蘚の恋に拘泥する次兄の二助、従兄で音楽学校を目指す浪人生の三五郎。この四人が一つ屋根の下に住む「家族」である。この家族はなぜか町子を名前ではなく「女の子」と呼ぶ
 ここに、故郷にいる祖母、三五郎の想い人となる“隣人”の若き女性、一助の恋のライバルであると同時に町子が慕うことになる柳浩六が加わって、世界のおおよそが出来上がる。
 さて、前回「内なる兄」と「内なる妹」というキーワードを出したが、これに照らし合わせると、一助と二助が純然たる「内なる兄」、町子が純然たる「内なる妹」となる。
 内なる兄は庇護者であると同時に批判者であり、内なる妹は現実から遮断されて夢と憧れに生きる特権的人格だ。三五郎は翠のペルソナの男バージョンである「耳鳴り」だろう。四人目となる町子を挟んだ形で存在するため、“三五郎”という名がついたのではないだろうか。町子と三五郎は誰よりも仲がいい。共に歌い、感情や“部屋”を共有する。将来同じ道をたどるかもしれないと示唆する部分もある。また、町子の髪を半ば無理やり断髪して、田舎娘から都会の女に変身させるのは他ならぬこの三五郎だ。
 一方、町子を古き良き世界に繋ぎ止めようとするペルソナもいる。祖母だ。祖母は優しい。けれど、町子のちぢれた赤毛をそのままでは認めようとせず、世間的に美しいとされる「まっすぐな黒髪」に矯正しようとする。思いやりに満ちているが、古い価値観によって個性を縛ろうとする存在だ。
 家族の外側で、もっとも親しい存在となる“隣人”には、文子の影が見える。そして、柳浩六は翠世界における「兄」的要素のうち「憧れ」が分離した存在であり、それはつまりチャアリイやN氏に重なる。
 町子は家族の世話係であると同時に、長兄たちに庇護される存在でもある。これは翠の生活史をそのまま写している。現実世界の兄たちは秀才揃いで、長兄が海軍少佐、次兄が僧侶、三兄が東京帝国大学を卒業後、技師として勤め、朝鮮総督府の農業技師の地位を得ている。次兄に続き、長兄も早くに亡くなるが、「第七官界彷徨」発表時にはまだ存命だった。また、三五郎にも設定モデルとなった従兄がいる。
 つまり「第七官界彷徨」は現実の人間関係に添いながら、解離の世界に彷徨い、徐々にその傾向が強くなっていった翠の内面を整理し、各人格を身近な人たちに仮託した上で小説に流し込んだ作品ではないかと思うのだ。だとすれば、独特の離人感にも納得がいく。
 物語の大前提は、若くてちょっと不思議ちゃんである町子の恋物語。
 けれど、関心は「分裂心理」に向けられる。ここでいう分裂心理とは精神分裂病のことではない。当時、一般にも言葉として広がり始めていたヒステリー、つまり解離症状のことだ。なお、かつては怒った女性がキーキー喚くのを「ヒステリー女」と表現したりしたが、これは女性と症状、両方への偏見による悪意ある誤用である。
 この時期、翠はフロイトを愛読していた。当時の文筆家として、フロイトを愛読すること自体は何も特別ではない。一種の流行だったからだ。
 しかし、フロイトが提示した多くの概念の中でも特に解離症状に強い興味を示し、それを「第七官界彷徨」に落とし込んでいる事実には強く注目すべきだろう。なにせ、のっけから『ドッペルなんとか』という「分裂心理学」について書かれた本が登場するのだ。
 ただし、この「分裂心理学」なるものは、フロイトの著作からヒントを得て「まったく私の独断的命名によるナンセンス心理学」であると、エッセイ「「第七官界彷徨」の構図その他」において告白している。翠は、なぜ「ナンセンス心理学」を生み出すほど、解離に執着したのだろう? それは、その部分が一番自分に当てはまったから、ではないか。
 町子は、作中で、翠オリジナルのこの学問を研究する何らかの文書を興味深く読む(『ドッペルなんとか』そのものかもしれない)。そこには、たとえば次のような内容が書かれている、ことになっている。

「互いに抗争する二つの心理が、同時に同一人の意識内に存在する状態を分裂心理といい、この二心理は常に抗争し、相敵視するものなり」

「分裂心理には更に複雑なる一状態あり。即ち第一心理は患者の識閾上に在りて患者自身に自覚さるれども、第二心理は彼の識閾↓に深く沈潜して自覚さるることなし。而して自覚されたる第一心理と、自覚されざる第二心理もまた互いに抗争し敵視する性質を具有するものにして、識閾上下の抗争は患者に空爆たる苦悩を与え、放置する時は自己喪失に陥るに至るなり」

 解離性同一性障害の事例を見ると、障害を持つ人たちが「自分を責める人格」の存在を訴えることが多い。他人格は主人格を守るために生まれる一方で、そのフラストレーションを晴らすかのように内なる敵になる場合もあるようなのだ。もし翠にもそうした体験があったとしたら、この文章もまた「実体験」に基づくのかもしれない。
 だが、町子は、ロマンチストの乙女らしく、一人の男が同時に二人の女を想っている状態に置き換えて空想の世界に遊ぶ。そして、こう述懐する。

 こんな空想がちな研究は、人間の心理に対する私の眼界をひろくしてくれ、そして私は思った。こんな広々とした霧のかかった心理界が第七官界の世界というものではないであろうか。それならば、私はもっともっと一助の勉強を勉強して、そして分裂心理学のようにこみいった、霧のかかった詩を書かなければならないだろう。

 町子のこの決心は、「詩」を「小説」に読み替えれば、翠自身の決心になる。いや、詩のままでもいいのかもしれない。翠は詩人を目指してもいたのだから。
 いずれにせよ、「霧のかかった心理界」とは解離の心理であり、それを描きたかったのだと作中で表明しているのだ。
 たとえば、一助と二助が「蘚」(「第七官界彷徨」では苔ではなく蘚の字が使われる。ただし、どちらも翠の隠喩であるのは同じ)について語るシーンでは、お互い部屋に引きこもったまま、顔を合わせることもなく討論する。町子と三五郎は、ただそれを聞いている。まるで他人格同士の会話を聞いている主人格のように。
 時として難解とされる「第七官界彷徨」の世界は、解離という視点から見れば別に難しくはない。リアルな精神世界なのだ。
 そう考えると、翠の後期作品を素直に受け入れられる人と「わからない」と投げてしまう人に分かれるのも納得がいく。解離傾向が少しでもある人ならば、描写に違和感はないが、解離傾向がなければさっぱり何のことやら、だろう。
「第七官界彷徨」以降の作品にも、分裂心理が描かれる。
「こおろぎ嬢」にはふぃおな・まくろおど嬢と生涯にわたって恋愛書簡を交わしたうぃりあむ・しゃあぷ氏が登場する。
 うぃりあむ・しゃあぷ氏とは実在したスコットランドの作家ウィリアム・シャープ(注2)のことで、ふぃおな・まくろおど嬢は彼のもう一つの筆名フィオナ・マクラウドである。シャープはなぜか二つの名を使い分け、作品を発表し、フィオナを実在の人物として扱っていた。フィオナが単なる仮名だったのか、それともシャープに内在していた別人格だったのか。そこはなんともわからないが、この二重存在に翠が強く惹かれたことだけは間違いない。こおろぎは苔と同じく翠の自己肖像であり、そんなこおろぎ嬢が熱心に調べる二人の恋愛は、まさに分裂心理同士の恋愛だ。
 また、「歩行」には小野町子が恋した柳浩六と同人格と思しき幸田当八、「地下室アントンの一夜」にはその当八と、町子に恋する土田九作が登場する。
 幸田当八は町子を心理学の実験台にする人物であり、土田九作は地下室に住む、脳の薬を用いてばかりの詩人である。
 登場人物名へのナンバリングは、当然意図あって行われたものだ。私は、そこに、自らの解離を冷静に眺めていた翠の視線を見る。そして、当八と九作が解離の世界を表す「七」以上の数字であることにも注意を払うべきだろう。

翠文学がわかる人、わからない人

 さて、ここまで読んで、解離の世界と翠の作品世界が近しいのはわかったけど、ちょっと我田引水すぎない? そもそも自分の解離状態を冷静に眺めて作品に昇華するなんてできるの? という疑問を持った向きもいるだろう。
 しかし、解離性障害を経験した(あるには現在進行系でしている)人々の手記などを読むと、作品化はできるようだ。なぜなら、解離は自覚可能な病態だから。解離由来の幻覚や幻聴も同様である。
 統合失調症の場合は「神に命令された」「電波が飛んできた」という表現が知られるように、当人は幻覚や幻聴は外部からもたらされていると感じる。しかし、解離は違う。あくまで自己内部から発するものだと本人は理解している。
 柴山雅俊氏は「自分の表象であるという意識を保ちながら、あたかも知覚であるかのように感じる体験」を表象幻視と呼んでいるが、ここで重要なのは「自分の表象であるという意識を保ちながら」の部分だ。
 意識は保っている。それでも意識の解離自体は止められない。そのせいで、尋常ならざる世界が現前する。
 翠はそんな状態を、文学にまで高めたのではないか、と私は思うのだ。これは生半可な才能でできることではない。文才のみならず、精神力や自己分析力も必要だ。
 そして、翠はそのすべてを持っていた。
 これは、他に類をみない文学的歴史的成果ではないかと思うのだ。
 だが、本人がどれだけ自己分析しようと、症状が悪化していくと他の精神疾患にもみられる諸症状が発生しはじめる。翠も、どんどん精神状態が荒廃していった。そして、発生した錯乱は、発症当時からミグレニンの過剰摂取による薬物障害だと決めつけられていた。だが、ミグレニンが薬理的に精神疾患を引き起こさないのは前に触れた通りだ。
 なのに、なぜ翠は“薬物中毒者”という不名誉な檻に閉じ込められてしまったのだろうか。
 キーマンは二人いた。
 一人は林芙美子である。彼女は、翠のミグレニン多用を間近で見ていたこともあり、彼女の精神状態が悪化した時に何の根拠もなく勝手にミグレニンによる薬害と断定してしまった。そして、他言もした。後々、文章にも記している。彼女自身、ヒロポン中毒になっていったような人なので、薬で精神を壊されたと早合点しても無理はない。とはいえ、思い込みなのは明らかだ。ま、芙美子のことである。根拠の有無など関係ねえ! 噂話上等! だったのだろう。
 そしてもう一人は、高橋丈雄という男性である。
 彼は翠の永久(とわ)となった帰郷に関わった人物であり、薬物中毒者説を固めてしまった一人だと私は見ているのだが、その辺りは次回、翠の死に様とあわせて紹介していきたい。

注1
著作中、この部分にかかる事例がすべて女性だったので「彼女たち」となっているが、解離は女性だけに起こるものではない。
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注2:ウィリアム・シャープ(William Sharp)
1856~1905 スコットランドの文人。Fiona Macleodの名と本名を使い分け、詩や小説を発表した。ケルト文化復興に力を尽くしたアイルランドの作家イェイツに影響を与えた人物でもある。
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