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もっと文豪の死に様

第13回

尾崎翠――「書かねばならない」 最後まで捨てなかった文学への熱情(後篇その4)

2022.08.26更新

読了時間

『文豪の死に様』がパワーアップして帰ってきました。よりディープに、より生々しく。死に方を考えることは生き方を考えること。文豪たちの生き方と作品を、その「死」から遠近法的に見ていきます。
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 昭和7(1932)年は、翠の文学人生にとってもっとも辛い年となった。
 精神状態の悪化が極まり、東京を引き払うしかない状態にまで追い込まれたのだ。
 では、一体何がそこまで彼女を追い込んだのだろうか。
 私は、翠が「世間の目」を気にする自分を捨てきれなかったのが大きな要因だと考えている。
 時は21世紀、令和の御代になった今でも、中高年独身者は偏見の目にさらされる。
 令和2年版の厚生労働白書によると、30代の男性では47.1パーセント、女性では34.6パーセントと、半数から3分の1が未婚だというのに、それでもまだ結婚圧力は存在しているし、世帯モデルは既婚子あり家庭のままだ。「結婚できない」に悩む人は少なくない。
 かく言う私は今50歳で一度も結婚経験がないので、未婚としては押しも押されもせぬベテランである。強いて結婚を避けたわけでもないが、強く求めもしなかった結果、こうなった。幸いなことに、身近に結婚を強要する人はなかったし、もしされたところでそれをプレッシャーに感じる性格でもないので、結婚が人生の必須イベントと思わないままここまで来た。そして今現在、日常生活上で独身が理由となる差し障りや差別を感じることはない。差別に関しては、私が極端に鈍感なだけかもしれないが。
 だが、翠の時代は違う。
 男女問わず結婚はして当然だし、女性はハタチをちょっとでも出ると「行き遅れ」枠候補になる。なにせ「ねえやは十五(数え年)で嫁に行き」の世界である。本人だけでなく親だって、いい年をした娘に婚約者の一人もあてがっていなければ親族や世間から白眼視されるから、とにかく縁談を進めようとする。この場合、結果の幸不幸は問われない。なんでもいいからとにかく「結婚した」という既成事実を作れればいいわけだ。つまり、つい最近まで(そして一部は今でも)、結婚は「幸せになるための手段」ではなく「目的」そのものだった。人生のスタンプラリーにおいて、一度は押しておかないと上がり認定してもらえない重要事だったのだ。
 長谷川時雨回でも触れたが、こんなシステムは不幸な女性を量産する。だが、無知であれば己が不幸とも気づけないまま逆らいもしないので「女に教育はいらない」ってな結論になる。
 なんにせよ、35歳ともなれば立派な中年だ。今は初老といえばだいたい60歳ぐらいを指すが、昔はもっと早い。戦後すぐでも40歳で「初老」だった。
 1932年の翠はというと、ようやく作品が評価を受け、発表の機会も増えてきていたが、文壇を離れた世間での知名度はゼロに近かった。当然、収入は低く、未だ親がかりの身から抜け出せない。30歳過ぎての親がかりは、さすがに今でもヤバい。
 さらに、独身であるために、周囲からはあらぬ詮索と冷笑を受ける。
 なんの詮索と冷笑か。
 性の問題について、である。
 戦前社会では、未婚女性に性的体験があってはおかしい。もちろん、あくまで「建前」に過ぎないのは当時の小説やら何やらを見れば明らかだが、少なくとも公式の恋人や婚約者すら一度もいたことがない女性は絶対処女であるはず、とされた。処女でなければ「ふしだらな女」であり、社会から蔑まれる。翠のような物堅い家の子女にはあってはならぬことだ。
 だが、ある程度の年齢で男性経験がないとなると、これはこれで嘲笑の対象となった。大年増(だいたい30歳以上)が未通娘(おぼこ)なんて、それはもう化物扱いだった。
 処女であっても、なくても、バカにされる。
 翠は、この点でとてつもない重圧を感じていた。証言するエピソードもあるのだが、注目したいのは一篇の小説だ。
 高橋丈雄の「月光詩篇 ―黒川早太の心境記録―」である。
 長らく忘れられていたこの小説は、研究者である布施薫氏によって発掘され、2006年の尾崎翠フォーラムで報告された。そして、『尾崎翠を読む』所収の森澤夕子氏の論文で一部引用をされている。残念ながら、小説そのものが掲載された雑誌をついぞ手に入れることができず、全体を見ることは叶わなかったのだが、昭和7年頃の翠が、かなり追い詰められた状態であったのは引用部分だけで見て取れる。そして、その原因が周囲の偏見だったとする森澤氏の分析はその通りだろう。
 では、翠の狂態を今に伝えることになった小説の書き手・高橋丈雄とはどんな人物だったのだろうか。
 彼は明治39(1906)年生まれ、翠より10歳年下で、昭和前期に活動していた小説家、劇作家だ。今では無名に近いが、昭和4年に「改造」誌で戯曲「死なす」が入選し、その後翠に近い立場の文学分野でオーガナイザーとしても活躍、戦後は昭和28年に「明治零年」で文部大臣賞を受賞、全2巻の全集を残すなどの文学史上に足跡を残した人である。後半生は故郷の愛媛県に戻って文化活動に深く携わり、彼の地の文学シーンで長らく活躍されたようだ。
 翠は、文学活動を通じて知り合ったこの10歳年下の男性に強く惹かれていた、ということになっている。そして、彼も憎からず思っていたらしいことは、後年の高橋を知る人の証言として残っている。
 また、創樹社『尾崎翠全集』月報に寄稿された追悼エッセイ「恋びとなるもの」には翠が帰郷することになった前後の事情が記されている。林芙美子による翠の「ミグレニン中毒」説誕生の瞬間まで、ありありと。なお、高橋は頭痛薬である「ミグレニン」を覚醒剤の一種と勘違いしていた(注1)。この勘違いに基づく風説が、翠の薬物中毒説を補強してしまった一因と考えられる。
 エッセイ内で語られる思い出は美しい。翠は高橋に作家としても人としても尊重されている。思いやりを受けている。だが、そればかりでなかったことは「月光詩篇―黒川早太の心境記録―」の引用部分だけでもあきらかだ。
 経済的には苦しい状態で、身近な人間にすら蔑まれる空気を身にひしひしと感じ、言動が不安定になった「老嬢」には、もう故郷に帰るしか生きる道は残されていなかった。
 高橋は錯乱状態の翠に求愛され、半ば同情半ば騎士道精神的使命感でそれを受けいれるつもりになり、一旦は自宅に引き取った。だが、すぐに「これは無理だ」と悟り、翠の兄に連絡を取って身柄を引き渡している。たぶん、この判断は正しかった。そのまま二人でいても破局しかなかっただろう。

諦めなかった文学への道

 帰郷後、入院静養を経て、翠の精神は回復に向かっていく。家族のもとで暮らすことで「経済的困窮」と「孤独」が解消されたのが何よりの薬になっただろう。
 同時に、ほんの数日とはいえ、自分より十も年若の好青年に「女としての自分」が受け入れられたという事実は、性的コンプレックスという心の澱を流し去るだけのインパクトがあったのではないだろうか。翠は初めて「私は女として欠陥品ではない」と自信を得たんじゃないかと思う。
 以前、こんなことがあった。
 とある取材で、私にとっては親世代にあたる年齢の超著名人にお話をうかがうことになった。メインテーマは、その時に発表された作品について、である。
 だが、その最中、彼女は唐突に語り始めたのだ。「私たちの世代にとって、処女をいつ捨てるかは極めて重大な問題だった」と。
 私はいきなりの展開に大いに驚き、戸惑った。そんな話はまったくしていなかったからだ。だが、一度語り始めたその人は、抑圧された環境下における性的コンプレックスが女性の精神をどれほど蝕むかについて、延々と説き続けた。尋常ならざる迫力に、こちらの居心地が悪くなってしまうほどに。
 なお、その方は、ある種翠に通ずる作風を持つ他ジャンルの作品を発表されていた。翠より二世代ほど下の人でさえこんなだったのである。翠の時代、中年未婚女性の性的コンプレックスはさらに激しかったと考えられる。
 だから、高橋とのわずかな同棲生活でその一部がほどけ、自信を得たことが回復の緒になるほどのインパクトを持っていてもおかしくない。リビドー(注2)の精神に与える影響はそれこそフロイト説の中心だが、翠がフロイトに接近した理由のひとつはそこだったのかもしれない。
 いずれにせよ、解離の原因がなくなったことで症状は比較的スムーズに収まっていったものと思しい。翠の言によると「帰郷して二ヶ月もするうち健康はとみに盛返して来た」そうだ。実際、翌年1月には地元紙「因伯時報」に「杖と帽子の偏執者チャアリイ・チャップリンの二つの作品について」と題するエッセイを寄稿している。
 書ける状態まで心が回復していくと、翠は再度文学への意欲を燃やし始めた。
 7月には『第七官界彷徨』の単行本が発売された。9月には地元で出版記念会が開催され、地元の文学関係者が出席している。高橋がそうしたように、地方文化人として生きる選択肢は残っていた。
 しかし、年末には翠の精神的支柱の一人であった長兄が死去、さらに翌年には地元における翠文学の理解者が神戸に移ってしまった。そんな状況で創作活動は思うに任せず、地元の詩歌雑誌にわずかな詩や散文を発表したのを境に文学的沈黙に入ってしまう。東京の文壇サークルに所属する人々とのやり取りも途絶えた。
 この時、翠は39歳。時局は風雲急を告げ、大日本帝国は破滅への一歩を踏み出していた。発表の場も、発表可能な内容も限られていった。精神の世界に遊ぶ小説を受け入れる余裕は社会から失われていった。
 翠の、そして維新日本の長い青春時代に、幕が引かれたのだ。

家族の一員として

 戦中から戦後にかけての消息は、死ぬまで交友関係があった松下文子と、ご遺族の証言ぐらいしか知るすべがない。わずかな便りは、昭和16(1941年)に地元紙「日本海新聞」に請われて寄稿した「大田洋子と私」という一文である。
「大田洋子と私」では東京では死亡説すらある己の健在をアピールしつつ、まったく作品を発表しない現状について「黄金の沈黙」と強がってみせている。だが同時に「仕事上のだらしない沈黙」とも表現している。私は、後者が本音であるように思う。このエッセイで、翠は洋子との思い出にかこつけながら、かつてと変わらぬキビキビとした筆で「東京で文士として文壇サークルに所属していた自分」をアピールしている。そして、「私がもし自然主義作家の席末でも汚していたとしたら、こんな生活を克明に描破して洋子へも健在を謳わせたかも知れないと思うのである」とまで言っている。
 つまり、書きたい気持ちを失ったわけではないんだよ、と明示しているのだ。また、趣味のお嬢さん芸でちょこちょこっと書いていただけの人間ではなく、れっきとしたプロ作家なんだよ、とも。でなければわざわざ「仕事上」なんて言葉を選ばないだろう。
 しかし、翠の文学にとって、戦時は完全なる場違いだった。無理に時局に合わせた小説を書いたところで、砂漠に苔を移植するようなものだ。まともに生きるはずがない。
 また、これはあくまで憶測に過ぎないのだが、「女人芸術」で連載を持っていたことはできれば隠しておきたかったかもしれない。なぜなら「女人芸術」は左翼の温床と見られていたからだ。翠が帰郷した年の6月に「女人芸術」は休刊となり、人脈はその後長谷川時雨の方針に従って「輝ク部隊」という翼賛団体に変化していくわけだが、今と違って情報の流通が乏しい時代、一度はアカの雑誌として当局に睨まれたことがある雑誌に寄稿していた女なんて噂が立てばえらいことになる。
 とにかく、鳥取の翠は、『第七官界彷徨』の町子がそうであったように、家族の一員として、そして「まずありふれた世界の一員」として過ごしていたし、それを選ばざるをえなかった。
 昭和12年に妹の忍が、夫の赴任地である朝鮮京城(現在の韓国ソウル)で出産することになるとその手伝いをするため海を渡った。昭和15年に母が亡くなると、その時に生まれた姪を引き取って育てることにした。やはり独居の孤独に耐えられる人ではなかったのだ。
 その後も、昭和18年の鳥取地震や20年の敗戦など、激動の人生が続く。戦後しばらくは、誰もがそうであったように、慣れぬ手仕事や行商などで糊口をしのがなければならなかった。
 一族内では翠のかつての功績はまったく話題にならなかった。
 翠は終生独身で、子を持たなかった。しかし、甥や姪の面倒をよく見た。特に、昭和31年に自分より先に逝ってしまった妹・忍の遺児たちに対しては、仮母ともなろうと心を砕いたようだ。
 甥や姪にとっての翠は「本や映画が大好きで、たばこをスパスパ吸ってなぜか標準語で話す、変わり者だけど面倒見のいいおもしろい伯母さん」であって、それ以上の存在ではなかった。
 しかし、友である文子には、文学への志未だ失せぬ気概を見せていた。
 昭和23(1948)年、二人は久々の再会を果たす。文子が鳥取を訪れたのだ。二人で蟹と牡蠣を思いっきり食べた。そんな楽しいひと時に、気持ちも東京時代に戻ったのだろうか。ふとした瞬間に「書かねばならない」と漏らしたという。けれども、家族の一員としての義務を果たす毎日から抜け出すほどの体力と気力はすでになかったのだろう。もう50代も半ばになっていたのだ。無理もない。
 だが、諦めきれたわけではなかった。果たされなかった夢は、彼女の胸に鬱々と溜まっていった。そして、それは昭和28年、57歳の時に再び幻覚や耳鳴りといった精神的症状として漏れ出してしまう。5ヶ月間の入院加療が必要となるレベルだった。これをミグレニン中毒のフラッシュバックであるかのように書いているものを見かけたが、とんでもない。ミグレニンにそんな力はない。
 もどかしい思いを抱えたまま老いていく現実。そこに何の葛藤もなかったはずがなかろう。
 昭和40(1965)年、70歳を前にする年になると、白内障や高血圧など、身体の衰えが顕著になってくる。その頃は妹・薫の元に身を寄せていたのだが、家庭の事情で老人施設に入居せざるをえなくなった。
 この時、相談相手になっていたのは文子だった。翠はかつての友に、今の心細い身の上を、連日のように手紙にしたためて送っていたのだ。
 心配した文子がとうとう翠の元を訪れると、なんと自分を東京に連れて行けと懇願したという。翠は、まだ諦めていなかったのだ。いや、もしかしたら、友の顔を見たことで最後の執念が蘇ったのかもしえない。翠にとって、文子は文学界と自分をつなぐ梯子でもあっただろうから。
 東京に出たところでどうにもならないのは、翠とてわかっていたはずだ。だが、東京には回収しなければならない人生のピースがまだ残っているように感じたのではないか。
 もちろん上京はかなわず、翠は文子の冷静な意見に従って老人ホームに入った。そこでの生活は、個人主義の翠にはつらいものだった。結局、半年ばかりでホームを出て、妹の新居に居候する日々に戻った。しかし、自活したいと強く願っていた。家を建てたいと言っていたそうである。そこで、自分が育てた姪とともに住みたい、と。
 その頃、東京では思わぬところで翠の再評価が始まろうとしていた。
 アヴァンギャルド芸術の牽引役であった作家/評論家の花田清輝が『第七官界彷徨』を高く評価する一文を発表したのだ。そして翌年には「全集・現代文学の発見」第六巻「黒いユーモア」に「第七官界彷徨」が収録される。
 その連絡を受けた翠はたいそう喜んだ。
 まさに青天の霹靂だったろうし、評価者は花田清輝と平野謙、つまり文芸評論の第一人者たちである。この時の翠の弾むような思いは、甥宛の書簡に残っている。

 本の出版というのは「黒いユーモア」という全集に入ったので、二十人近くの中の一篇です。二、三十年前に書いたものです。稿料期待してたが此度は印税にして七万円足らずしか入りませんでした。それも一割以上は取られ手取りは六万だけ。(中略)
 本は二冊しか来なかったのを一冊は図書館へ。一冊は手元に残したいので、本屋の立よみか何かで済ませて下さい。ケッサクだそうだが一向金にはならない。

 税金がっぽり引かれるとか、送られてきた見本部数が少ないとかってがっかりしますよね。
 わかります。
 何にせよ、ユーモアあふれる書きっぷりだ。批判精神も筆の勢いも衰えていない。
 だから、これがもし20年早ければ、あるいは最後に一花咲かせることができたかもしれない。けれど、体力が落ち、視力も衰えていた翠には、再びの春の巡りは遅すぎた。
 中央での、しかも現代文学の先鋭たちによる再評価に驚いた地元マスコミは色めいてそれまで存在にすら気づいていなかった老婆に寄稿や出演を持ちかけたそうだが、いずれも断ったという。
 翠らしい、誇り高い選択だ。
 さらに2年後、昭和46(1971)年には、薔薇十字社から作品集刊行が持ちかけられた。
 手垢のついた表現だが、でもあえて使おう。
 時代が、ようやく翠に追いついたのだ。
 きっと嬉しかっただろう。自らの文業が徒花でなかったことが証明されたのだから。
 だが、肉体は終焉に向かっていた。6月には高血圧と老衰で病院に運び込まれ、そのまま寝たきりになった。75歳で老衰とは、今の感覚だとずいぶん早すぎる感じがするがたった50年前の平均年齢は女性で75歳。死んでもおかしくない年齢だったのだ。
 入院時、翠は「このまま死ぬのならむごいものだねえ」と大粒の涙を流したという。
 7月になると肺炎を発症した。入院中の肺炎ということは、おそらく誤嚥性肺炎だろう。誤嚥性肺炎は多くの老人にとって死神の鎌となる。翠の命も、これで絶たれた。
 息を引き取ったのは7月8日。
 享年75。
 作品集『アップルパイの午後』が刊行されたのはその4ヶ月後、11月だった。

言った、言わない問題

 さて、本来であればここで翠の章は一段落つくはずである。
 だが、今回はそうもいかない事情がある。
「このまま死ぬのならむごいものだねえ」を言った言わない問題があるのだ。
 この問題が出てきたのは、翠の死後20年以上経ってからのことだ。
 きっかけとなったのは、映画『第七官界彷徨 尾崎翠を探して』の制作だった。監督は浜野佐知、脚本は山崎邦紀。映画は、伝記と「第七官界彷徨」の世界をミックスさせて翠という作家の世界を立体的に描こうとする作品で、導入含めた所々にクラブで遊ぶ若い女性たちが、モニターに映る謎の映像から翠を発見していくシーンを挟み込むなど、現代との接続も意識した意欲作である。
 だが、この作品に「このまま死ぬのならむごいものだねえ」のセリフは出て来ない。意図的にカットされたのだ。
 なぜなら、浜野監督と脚本の山崎氏が「言わなかった派」だからだ。
 そして、この映画から派生して2001年より鳥取県で開催されるようになったイベント「尾崎翠フォーラム」の参加者にはこちら派閥に与すことにした人が多かった。そのため、「言わなかった派」はそこそこいるのである。
 では、浜野氏、山崎氏は何の根拠があって言わなかった説を称えたのか。
「このまま死ぬのならむごいものだねえ」という言葉は、尾崎翠全集の編纂者である稲垣眞実氏が、妹の薫さんから聞いたものだ。よって、もし言っていないなら、薫さんか稲垣氏のどちらかが嘘をついたことになる。
 だが、薫さんにそんな嘘をいう理由はなかろう。
 ならば可能性は一つしかない。稲垣氏が捏造したのだ。
 しかし、全集の編者がそんなことをして一体何になる?
 疑問に思って、浜野氏や山崎氏が書かれたものをいくつか見てみたのだが、どうやらお二人と稲垣氏の間に感情的なトラブルがあったらしい。そこでお二人は稲垣氏に信を置くあたわずと判断し、「翠は人生の最後にそんな泣き言をいうような半端な人間ではない」と解釈することにしたようだ。そして、稲垣氏への反発に同調した周囲の人々が、それを支持したというのが経緯であるらしい。
 事の真偽を判断する直接的な材料を私は持たない。
 けれど、個人的には言ってもおかしくない、と考えている。
 なぜなら、翠が「作家としての人生」に相当な未練を残していたのは紛れもない事実だからだ。そうでなければあれほど東京に執着するはずがない。
 翠は、家族の一員である自分には折り合いをつけていただろう。書簡やご遺族の思い出話から立ち上がる翠の姿は決して負け犬でも、惨めでもない。
 だが、家族の一員で満足することと、作家として大成できなかったことを悔やむ気持ちが一人の人間の中で両立しないわけではない。
 家族とともに過ごしながらも、故郷への完全なる埋没を拒否する心情があったのは、彼女が終生標準語で話していたという一事でも明らかだ。方言優勢の地方都市において、標準語で通すのは、それだけで一つの主張である。言葉に対して誰よりも敏感だった翠が、何の意図もなくそんな真似をするはずがない。
 地元での後半生に潔く満足していたとする翠像は、たしかにかっこよくはある。
 だが、私は最後まで文学にすがろうとした翠に、より強い共感と魅力を覚える。
「このまま死ぬのならむごいものだねえ」と泣いた翠。そこに人としての弱さを見るのか、文学への思いの強さを見るのかで、涙の意味は大きく変わる。だが、よしんばこの言葉がなかったとしても、翠が長らく物書きとしての自分を諦めなかったのは、文子の証言によっても間違いないのだ。
 私は、こんな“諦めの悪さ”を愛する。
 それはちっとも無様ではない。
 翠はモダンでスマートでポップな人だ。だが、そんな人の心にもジクジクと痛み続ける棘があり、最後の最後で大粒の涙になってこぼれたとしたって、何もおかしくないではないか。
 人間は多面体だ。ある一面の色が美しく完成されていても、別の面は中途半端なままってこともあるだろう。
 よって私は「まだまだ書けたはず、まだまだやれたはず」と悔やんだ無念を、素直にすくい取りたい。
 尾崎翠さん、私もあなたの作品をもっと読みたかった。もし、あの世があるのなら、ようやく好きなだけ書いていらっしゃることでしょう。今生では決して読めない新作、そちらに渡った時の楽しみにしています。

注1
1977年4月29日の書簡。山崎邦紀氏のブログ「影への隠遁Blog」に全文掲載されている。
http://blog.7th-sense.sub.jp/?eid=894628
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注2:リビドー(libido)
フロイトの精神分析学の基礎概念。性的本能に基づく生への衝動(エロス)によって用いられるエネルギーとされる。
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