第4回
死ぬまで自我愛に惑わされる
2017.03.10更新
進学、就職、結婚、人間関係……人生は分岐点の連続。「優柔不断」「後悔」をきっぱり捨てるブッダの智恵を、初期仏教長老が易しく説きます。
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■死ぬまで自我愛に惑わされる
毎日の生活の些細な問題から、大きな転機となるような問題まで、さまざまな選択をして人生を送り、人はやがて死を迎えます。その年齢が遅かれ早かれ、死は誰にでも訪れます。死なない人間はいません。
いつ、どんなふうに死ぬか、そんなことは誰にもわかりません。しかし、そこでも「自我愛」がまとわりついて、悩ませ、苦しませます。
「病気になって寝たきりになったらどうしようか」
「ひとりぼっちで家で死んでいて、ずっと誰にも気づかれなかったらどうしようか」
自分の生命に対して執着がある人ほど、いろいろなことを考えて悩むのです。家でひっそり死ぬのはイヤだと言いながら、ひとたび入院するようなことになると、「ああ、最期のときは、病院でいろんな器械につながれて迎えるんじゃなくて、家の布団の上がいいなあ」と言う。
これもまた妄想です。どんなに考えたところで、死に方は自分で選べません。家の布団の上で死んでも、病院でたくさんチューブをつけて死んでも、どこで死んでも同じことです。病気でだんだん弱っていって死ぬのも、事故で突発的に死ぬのも同じ。結果から見れば、「あなたは死んだ」、ただそれだけの話です。
どう死ぬかは自分で管理することのできない問題です。その管理できない問題に、あれやこれや条件をつけたがるのはおかしな話で、妄想でしかないんです。自我がそういうことを言わせるのです。
死ぬときまで、われわれは自我という恐ろしい鬼、悪魔に追いかけられていて、一瞬たりともやすらぎを与えてもらえません。
そればかりか、自分が死んだらどんな葬式をやってほしいとか、お墓はどうしてほしいとか、現代人は死後のことまで心配するようになっています。葬式に誰が集まろうと、お墓がどうされようと、自分にはけっして知り得ないこと、かかわることのできない話です。そんな問題にまで自分の自我を押しつけようとしているんですから、どこまで利己的なご都合主義になってしまっているかということです。
■死後の問題もまた悩ましい
そうはいっても、悩まずにはいられないのが人間なのです。
かくいう私も、その問題でここ何年も悩んでいます。考えているのは、「死んだら私の遺体をどう処分するか」ということです。
私はスリランカで生まれ、スリランカに寺もありますが、ずっと日本で生活していますから、日本で死ぬ可能性がかなり高いです。「死んだら『私の遺体はこうしてください』とはっきり言い残しておいたほうが、まわりの人たちはラクなんじゃないかな」という気持ちがあります。その一方で、「死んでしまったら私の肉体はもう私のものではないのだから、どんなことをされても私には関係ないこと。自分で注文をつけるのはおかしいだろう」という気持ちもあります。
私の場合、心配の種は遺体をどのようにするかだけですが、財産を持っている人たちは、その財産をどうしてほしいか、自分の思いをかなえたくて、遺言を書いたりしますね。
しかし、息を引きとって死んだ瞬間に、肉体は自分のものではなくなります。同時に、財産の権利もなくなります。家も財産も、いま自分のものだから、自分に権利がずっとあるように思っていますけど、実際には死亡が確認された時点で、所有権はすべて失っているんです。家も財産も、生きている人のものになる。そうなると、自分には権利がないものに口出しするなんて越権行為だ、ということになります。
困ったことに、こんどは残された家族の自我・エゴがうごめきはじめるのです。遺産をめぐって、親族がそれぞれ自我を張り合い、いかに自分に権利があるかを主張する。骨肉の争いというのが始まるわけです。
人間とはなんとも悩ましい生き物です。自我の錯覚というものが一生涯ずっと追いかけてきて、いえ死後までも追いかけてきて、悩みの種になってくるのです。
では、どうすればいいのでしょうか。どういう生き方をし、選択をすれば、その苦しみから脱することができるのでしょうか。
ものごとの判断と選択を、自我というもの、感情というものを抜きにしてやればいいのです。
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