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「平穏死」を受け入れるレッスン 自分はしてほしくないのに なぜ親に延命治療をするのですか? 石飛幸三 音声配信中

第8回

【老衰死・平穏死の本】医療依存――日本人はなぜこんなに検査・検診が好きなのか

2018.01.11更新

読了時間

まもなく多死社会を迎える日本において、親や配偶者をどう看取るか。「平穏死」提唱者・石飛幸三医師の著作『「平穏死」を受け入れるレッスン』期間限定で全文連載いたします。
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本を「聞く」という楽しみ方。
この本の著者、石飛幸三医師本人による朗読をお楽しみください。

■医療依存――日本人はなぜこんなに検査・検診が好きなのか

 医者には怪我や病気の人を救うという使命があります。目の前にいのちの危機を迎えている人がいたら、たとえ「何もしてくれるな」と言われても、「治さなければいけない」と思って延命治療を行わずにはいられません。

 しかしそれがために、「その医療を行うことはその人にとってどういう意味をもつのか」「何のための医療なのか」ということが見失われがちになります。

 その結果として、本人が望まない医療、あるいはそういうかたちでいのちが救われたことが幸せかどうか疑問な医療、必要以上の過度の医療などが施されることになります。

 また、現代医療の進歩は目覚ましいものがあり、かつては治せなかったさまざまな病気がどんどん治せるようになっています。そのせいか、いつのまにか、科学というものを、医療というものを、われわれは過信しすぎるようになってしまいました。こんなに医療が進んでいるのだから、治るのが当然という気になっているのです。

 日本人がいかに医療依存体質になっているか、それがよく表れているのが、検査や検診です。

 日本の病院では、何かというと「では検査をしましょう」と言います。

 どこかが悪いといって受診するとまず検査、検査で病気が見つかると、もっとよく調べるために再検査です。とくに問題がなかった場合には、医師が優しい口調で言います。

 「この程度で済んでよかったですね。ちょうどよい機会ですから、この際、他も検査をしておきましょうか」

 ああなんと親切な先生かと、「はい、お願いします」となります。

 もちろん、なかには必要な検査もありますが、無駄に行われている検査が相当あります。その検査の意味、放射線照射の影響、検査の費用対効果などをほとんど考えていないのです。まるで検査することが無条件の善と言わんばかりです。

 実際には高い費用がかかっているのですが、個人負担が少ないため、自分が国家の医療費を無駄遣いしているという自覚が国民一人ひとりにありません。もしあれを全額自己負担でお願いします、ということになったら、検査は相当減ることでしょう。

 先日もある病院の待合室で、七〇代の男性がMRI検査に先立って注意書きの説明をする看護師さんに言っていました。

 「俺は何度もこの検査を受けているんだ。常連なんだから、そんなことはわかってるよ」

 自慢げでした。典型的な医療費無駄遣い老人です。「趣味は検診」のタイプです。彼はこれまでにさぞかしふんだんにレントゲンを浴びてきたことでしょう。それを自慢しているとは、これもまた倒錯です。

 日本人ほど病気探しの好きな国民はいないと思います。

 そして、検査の結果がよいと、安心して調子に乗ってまた飽食します。ちょっと数値がよくなかったりすると、「数値が高いんだって。食いたいものが食えなくて、困っちゃうよ」と検査の結果を酒の肴にする。おかしな国です。

 結局は個人の意識が変わらなければ、何も変わりません。

 日本の病院の待合室には各種の検査のポスターが貼られています。

 「あなたの血管は大丈夫ですか?
 動脈硬化、脳梗塞、心筋梗塞、閉塞性動脈硬化症」

 人間、歳を取れば誰しも血管は傷んできます。それが動脈硬化です。経年変化です。

 検診の費用対効果についての研究論文は、欧米にはたくさんありますが、日本にはほとんど見当たりません。たとえば腹部大動脈瘤は直径が六センチを超えるものは破裂の危険が高いので、超音波装置での検診は大いに役に立つと考えますが、欧米の論文は費用対効果の面から否定的です。メタボ検診により動脈硬化や糖尿病、心臓疾患が減ると考えていますが、それは実証されているのでしょうか。

 しかもその上、このまま見逃すわけにはいかないと老衰の最終章の人に医療をすると、それがかえって人生の最期を惨めなものにしかねないのです。

■病気を見つけてどうするつもりだ?

 検査・検診大国ニッポンでは、介護施設にいる平均年齢九〇歳になろうという認知症高齢者に、胸のレントゲン写真を撮らせ、血液検査をすることを半ば義務づけています。結核を見逃さないためといわれています。

 検査専門の業者は、どこかの医療機関でお払い箱になったような古い器械を持ってきて、撮影します。写っているのは、アマゾン川のような大動脈の石灰化の画像で、とても結核の微細な病変などが見られる代物ではありません。

 そして、コンピュータで出した、判で押したような検査結果を送ってきます。

 「貧血です。アルブミンが少ないです。病院へ行って調べてもらってください」

 これを見たご家族から、次々と問い合わせが来ます。

 「病院に行かせなくてよいでしょうか」

 私は答えています。

 「九〇歳の老人が、四〇代の成人と同じ値だったらそのほうが異常でしょう」

 異常値が出るのがわかっているのに、検査を義務づけているのです。

 検査をする以上は結果を評価する基準が必要です。しかし高齢者の基準というのはまだ作られていません。それなのに、健康な成人の値を基準に、「異常がある」とするのです。

 ここでも検査の意味が考えられていません。無駄に医療費を浪費しているだけです。方法があるならしておこうというだけです。

 九〇歳の認知症の人の身体からわざわざ病気を見つけ出して、どうしようというのでしょう。本人は何もわからないのです。点滴をされるだけでも恐怖を感じている人をさらなる恐怖に陥れて、その病気を治すことが必要なのでしょうか。

 検査をしなければいけない決まりになっているから、やっているだけ。やらずに問題が起きたときにみんなが責任を負いたくないからやっているだけ。無駄金を使っているとしか言えません。

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著者

石飛 幸三

特別養護老人ホーム・芦花ホーム常勤医。 1935年広島県生まれ。61年慶應義塾大学医学部卒業。同大学外科学教室に入局後、ドイツのフェルディナント・ザウアーブルッフ記念病院、東京都済生会中央病院にて血管外科医として勤務する一方、慶應義塾大学医学部兼任講師として血管外傷を講義。東京都済生会中央病院副院長を経て、2005年12月より現職。著書に『「平穏死」のすすめ 口から食べられなくなったらどうしますか?』(講談社)、『「平穏死」という選択』『こうして死ねたら悔いはない』(ともに幻冬舎ルネッサンス)、『家族と迎える「平穏死」 「看取り」で迷ったとき、大切にしたい6つのこと』(廣済堂出版)などがある。

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