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「平穏死」を受け入れるレッスン 自分はしてほしくないのに なぜ親に延命治療をするのですか? 石飛幸三 音声配信中

第7回

医療保険制度の功罪

2018.01.04更新

読了時間

【 この連載は… 】 まもなく多死社会を迎える日本において、親や配偶者をどう看取るか。「平穏死」提唱者・石飛幸三医師の著作『「平穏死」を受け入れるレッスン』期間限定で全文連載いたします。
「目次」はこちら

本を「聞く」という楽しみ方。
この本の著者、石飛幸三医師本人による朗読をお楽しみください。

■医療保険制度の功罪

 日本の医療問題を語るうえでは、すべての国民が低負担で医療を受けられる仕組み、国民皆保険制度に触れないわけにはいきません。

 健康上の障害が生じたとき、誰もが気軽に医療機関で診療を受けられるのは、国民皆保険のおかげです。これは世界に類を見ない恵まれた制度です。

 しかし、この仕組みがいまや、日本の財政を揺るがす大要因になっています。

 それは日本人が、自己負担の少ないことをいいことに、湯水のように医療費を使うようになったからです。

 わが国の国民医療費は、いまや四〇兆円を超えています。そして、このうち後期高齢者の医療費、すなわち老人医療費が一四兆円、約三五パーセントを占めています。

 ちょっとしたことでも「病院に行って診てもらわなくてはいけない」という強迫観念に捕われて、医療機関に駆け込みます。なかには、保険料を納めているのだから、医療の恩恵を受けないと損だと考える人もいます。

 とりわけ、時間は十二分にあり、老いというさまざまな病態を抱え持った高齢者は、せっせと医療機関に通います。毎日の生きがいが、病院に行く予定が入っていることだったりします。飲まない薬がどんどん高齢者の家に溜まっていきます。

 雪だるまのようにふくらんでいく高齢者医療費のツケは、孫や曾孫のような若い世代にどんどんまわされていきます。これでは若者は老人を敬うような気になれず、むしろどんどん疎ましく思うようになるのではないかと心配です。

 一方、「診療・治療する側」にも問題があります。

 日本の医療費は出来高払いです。これは本来、性善説に則って、倫理的、理性的に運用されるべきものです。ところが人間が欲にかられて利益追求をしようとすると、いかようにもできてしまうのです。

 そのつもりでなくても、この病態は老衰によるものであって、治せないものであることを考えないと、役に立たない医療行為を老人に押し付けて、結果的に高額のレセプトを提出してしまいます。

 要するに、医療を受ける側に対しても、提供する側に対しても、“ざる”のような仕組みになっているのです。これでは破綻するのも当たり前です。

■ヨーロッパの医療のあり方との違い

 日本の医療供給は、公的機関より私的な機関でより多く行われています。ですから供給は自由競争に沿っていますが、財政は公的に管理され、保険料と税金の両方で賄われています。

 これに対して、ヨーロッパでは、医療は供給も財政も国の管理下にあります。イギリスではすべて税金により賄われていますし、フランスやドイツでは保険料で賄われています。

 そのうえ日本と欧州とでは、医療の管理の仕方が違います。向こうにも医師会はありますが、基本的に政治活動はしません。その代わりに、倫理的に医療のあり方を管理する専門的な監督官庁があるのです。政権政党が変わると政府の方針がぶれる日本、厚労省が医師会を“利益誘導”している日本とは大違いです。

 イギリスでは、患者が地域の単位ごとに一人の家庭医(general physician)に登録されており、地域の住民は病気になったときにその医師の紹介がないと専門の病院を受診できない仕組みです。

 直接大病院に行けないので、ときには病気を治してもらうのに手間取ることもあり、日本のように保険証があれば誰でもどこでも自分の望む医療機関を受診できるのに比べれば不便です。

 日本はその点恵まれていますが、そのために、じつは病気ではない高齢者で病院があふれ返っているというアンビバレンツな状況を生んでいます。

 もう先がない老衰の場合と、人生途上のまだ先がある病気の場合とでは医療の意味が違うはずです。ところが、日本では病的状態として一緒にされているのです。医療の意味が確立されていないので、医療の対象としての適応が真剣に考えられていないのです。

■無駄の少ないドイツの合理主義

 血管外科の技術を得たいと考えた私は、若いころ、ドイツの病院で実地に医療を学んだことがあります。ものの考え方が日本とは違っており、さまざまな場面で目から鱗が落ちた思いをしました。

 たとえば病院で、日本では骨折の患者が来た場合、整復前、整復後、二度レントゲン写真を撮ります。そのことをおかしいと思う日本人などいません。

 しかしドイツでは違っていました。私は当直の夜、手首を骨折した子どもが来ました。整復して、ギプス固定をしました。

 翌朝の報告ミーティングの際に、整復前後のレントゲン写真を提示したところ、教授からひどく叱られました。

 「子どもの手首の骨折は定型的なものだ。整復後の写真一枚あればよい。レントゲンで透視しながら真剣に整復作業をしたはずだ。あるべき位置に治したのだ、

 その正しい位置に戻った証拠写真があればそれで充分だ。整復前の、骨の折れた写真など不要だ。これは『こんなにたいへんな状態だったのを私は治したのです』と言わんばかりの鼻持ちならない自己顕示だ。そんなものは要らない」

 日本では当然のこととしてやっていたことを、バッサリと切り捨てられました。無駄なことはしないという合理主義とともに、「それまでの経過や、作業の内容は医師が自分の責任のもとに行ったのだから、それを信じるべきだ。それが医師の権威であり、医師の矜持というものだ」という確固たる自信に基づいた考え方でした。

 それは、レントゲン撮影による照射被爆量をできるだけ抑える、という発想もあっての判断のようで、二重、三重の意味でなるほどと思わされました。

 こんなこともありました。

 アウトバーンで交通事故が起きた場合、警察官が来て写真を多方向から一斉に撮ると、できるだけ早く事故車を移動させて、本来の交通機能の回復・再開を最優先させます。事故の調査は後回しです。

 あるいは、遮断機のある踏切では、遮断機が上がっていれば、どんどん前の車に続いて踏切を渡ります。遮断機が降りていないのですからさっさと渡ったほうが、交通が滞りません。燃料も無駄になりません。しかし日本の場合は、遮断機が降りていないときでも車は一旦停止しなければなりません。

 ドイツは合理的だとよくいわれますが、国民が社会の仕組みを互いに信頼しあっているのだと感じました。

 規則のための規則に縛られず、当たり前のことが当たり前に機能していたのです。

 それに比べると、日本はいまだに市民社会が成熟できていない感があります。

 老人医療についていえば、日本では、レセプト(診療報酬明細書)に病名を書いて保険機関に請求すれば、それが老衰に役に立たなくても診療報酬を受け取ることができてしまいますが、ドイツの場合は、医師が「この患者は老衰であるから、医療の対象ではない」と一言カルテに書けば、老衰の患者に無駄な医療が行われるようなことはありません。

 日本でも各人が自己責任をもち、そのなかで当たり前のことを当たり前にやる。そうすれば、日本はもっと風通しがよい社会になる気がします。

 高齢社会の日本では、今、多くの国民が医療のあり方のおかしい面に気がついてきました。

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  • みんなの感想

    病院の言うなりになっても、親はかえらない

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著者

石飛 幸三

特別養護老人ホーム・芦花ホーム常勤医。 1935年広島県生まれ。61年慶應義塾大学医学部卒業。同大学外科学教室に入局後、ドイツのフェルディナント・ザウアーブルッフ記念病院、東京都済生会中央病院にて血管外科医として勤務する一方、慶應義塾大学医学部兼任講師として血管外傷を講義。東京都済生会中央病院副院長を経て、2005年12月より現職。著書に『「平穏死」のすすめ 口から食べられなくなったらどうしますか?』(講談社)、『「平穏死」という選択』『こうして死ねたら悔いはない』(ともに幻冬舎ルネッサンス)、『家族と迎える「平穏死」 「看取り」で迷ったとき、大切にしたい6つのこと』(廣済堂出版)などがある。

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